16章 御巡幸・天覧の謎

明治十三年六月 御巡幸松本御通圖

(日本浮世絵博物館所蔵)

1.行幸、巡幸とは

行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することであり、目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。
明治天皇は生涯の大半を御所で過ごした江戸時代の天皇とは対照的に、各地へ行幸された。
このうち明治5年の九州・西国、同9年の東北・北海道、同11年の北陸・東海道、同13年の甲州・東山道、同14年の山形・秋田・北海道、同18年の山口・広島・岡山、を六大巡幸という。
以下の表に六大巡幸を示す。ただし、備考は明治天皇がガラ紡機を御通覧になられた場所を示す。
 明治14年7月30日-10月11日 東北・北海道地方

明治天皇 六大巡幸
場所 備考
 明治5年5月23日-7月12日  大阪、中国、西国(近畿、四国、九州)
 明治9年6月2日-7月21日  東北
 明治11年8月30日-11月9日  北陸道、東海道  長野天覧所
 明治13年6月16日-7月26日  山梨県、三重県、京都府  松本
 明治18年7月26日-8月12日  山陽道(山口県、広島県、岡山県)

2、明治天皇御巡幸の目的

明治天皇の御巡幸は、おおむね次の理由によるものとされている。[1]

  • 明治天皇を政治支配のシンボルとして支配の正統性とイメージを民衆の中に定着させる。
  • 「民情を知り、民の生活の苦しみを問う」ことを標榜した民衆政策。
  • 天皇を見せることによる威光の効果をねらった心理的な作戦。
  • 明治政府が庶民の不満をなだめ、明治天皇の存在を民衆に認識させて忠誠心そだてる。

これらは全て発足間もない明治政府の盤石とは言い難い、基盤固めの為の、精神的、思想的な啓蒙活動である。

3、明治天皇によるガラ紡機を御通覧

・2回のガラ紡機御通覧
明治天皇は御巡幸の際2度にわたりガラ紡機を御通覧になられる。
1回目は明治11年の明治天皇陛下の北陸東海両道御巡幸の折に長野天覧所で、2回目は明治13年の山梨・三重・京都巡幸の折に中山道から外れて松本に立ち寄られた時である。特に明治13年の御巡幸の折は、天皇に同行してきた太政大臣三条実美らが連綿社の工場を巡視し、辰致を励ましたという。

・連綿社社長波多腰六左の波多堰の絵天覧
明治13年の御巡幸の折、波多腰六左は波多堰の全景の絵を天皇にご覧いただいている。

4、信州平田門人と品川弥二郎

・天皇御巡幸のスケジューリング
天皇御巡幸は綿密に計画されたスケジュールに従って実施されており、「..臥雲辰致の発明せる機器には特に御目をとどめさせられ..」と記録にはあるが、これも前もって計画されたことであろう。
明治天皇御巡幸にあたっては御巡幸請願奏上が多く、天皇がすべての地を回ることは困難であったために、必要な場所には代覧・巡視という形態がとられる。
山梨・三重・京都巡幸では特に上伊那・下伊那両郡が郡下の状況を基に上奏してきたが、巡幸不可のため内務少輔品川弥二郎が天皇に代わり巡視を行い報告している。[2]
また品川弥二郎は天皇御巡幸に先だって、御巡幸先を回り打ち合わせも行っている。

・明治維新以後の平田学派
明治新政府が平田派国学を必要としていたのは、天皇による統治体制樹立の思想的背景の強化段階においてのみであった。
そのため平田派門人が要職についていたのは慶応 4 年から明治 4 年までの、短期間でありそれ以後は、平田派門人は政治の場から排除された。

・明治維新後の実務派達の戦い
信州平田学派が明治維新を多岐にわたり支えたことは、様々な資料から明らかであるが、維新から10年以上も経過し、西郷、大久保、木戸の維新三傑と言われた人たちが没した後も、品川弥次郎などの明治政府の実務派が、御巡幸の裏で、維新時に同志であった平田学派に殖産興業への協力を要請している事実には驚きを隠せない。
そしてそれを示す重要な文書が開産社最後の社長の倉澤家に残っている。
・品川弥次郎 松本開産社巡視

時偶々明治天皇御巡幸の盛儀を挙げ給ひ、内務小輔品川氏車駕に扈(こぐ)して信刕に入る。
是明治十三年六月なりき。品川氏松本に至るや直に松本開産社に巡視せられ、社長北原稲雄に示すに大日本勧農義社の諸則を以てせられ、農政振起の対策を叙せられ、大に賛助を求められたり。余又其席に侍し、其他県下有志の者は勿論開産役員の面々三拾余列席、遂に何れも入社を諾すに到れり。
倉澤清也「九十九路野標続草」より抜粋

・品川弥次郎とは

品川弥二郎は戊辰戦争の折に歌われた「宮さん宮さん…」のトコトンヤレ節の歌詞を作ったことで有名であるが、長州藩士として伊那谷の平田学派と特に親交が深かった[3]
また彼は、明治維新後の明治3年に渡欧しドイツやイギリスに留学しその経験を生かして、信用組合法を制定して庶民の金融機関を確立し、特に農村振興に関する諸制度も創建するなど「殖産興業の神」、「農業協同組合の父」と称される。

 

・開産社から品川弥次郎への手紙

明治13年御巡幸の折に品川弥次郎が、松本開産社巡視を行ったことに対する松本開産社長北原稲雄を筆頭とする、開産社社員のお礼の手紙を下に掲げる。

倉澤家所蔵
北原稲雄 印
結合 印 印 印 印 印
品川内務少輔殿へ御返翰
(本月十九日御状奉ハ相イ達シ)奉拝見候先以御壮健ニ被相渡奉
添賀候然バ過般該地御経過ノ節ハ
御高話相窺イ難有奉拝奉候其砌
御談話中農業統計表一部御送リ致被
成下難有拝受仕リ永々重宝仕リ候偖
甚恐縮之至リニ奉存候ヘ共該社〇〇〇
〇〇〇〇(施板鑅饌遠慮壹枚)〇百枚奉差上候御落掌
被下置候様奉願上候先ハ右御受旁奉
恵礼候御添恐惶早々可祝
十三年七月二十四日
開産社
書記    上田佳蔵
同    松平寅門
同    倉田俊長
同    松野俊長
開産社社員 折井伊織
開産社社長 山崎幸助
同 北原稲雄
品川内務少輔 殿
二個 勧農義社 御報
一件 御説諭被置ニ付漸ク誘導仕リ候与リ方今五十名巳上入社仕リ候間比旨添而奉上申候

品川内務小輔殿へ御返翰(返翰=返事の手紙)
拝見、たてまつり候、先ずもって、ご壮健に、あいわたられ、恭賀(めでたい事)奉り候。
しからば、かはん(さきごろ)がいち(この地を)、御経過の節は、御高話相いうかがい、
有難き奉り候、このみぎり御談話中、農業統計表一部御送り下され、有難く拝受つかまつり、末永く重宝つかまつるべく候。
さてはなはだ、恐縮の至りに奉り、候とも、該社(開産社をさす)せつはんえいせんえんりょ一枚、百枚差し上げ奉り候、
御落掌(うけとる)下され置き候よう、願い奉り挙げらう様、先ずは右御受けかたがた、恵礼奉り候。
恐惶(恐れ入ること)早々祝うべく。

解読は松本市在住の歴史家百瀬光信

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[1]「NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ」を参考。

[2]「太政官期地方巡幸の基礎的研究」小坂肇著

[3]「彼(倉澤義随)はまた、ある日偶然に旧友近藤至邦に会い、相携えて東山長楽寺に隠れていた品川弥二郎をひそかに訪問し、長州藩が討幕の先駆たる大義を聴くことを得たという。」(島崎藤村 「夜明け前」より)
「東山長楽寺中に潜伏せる松尾多勢子を誘ひ、初めて長州の傑士品川弥次郎氏に会す。氏や年少気鋭械(奇)謀縦横、言辞明晰、尊王の大義を以て自ら任じ、長藩の形勢を説くこと詳に、一見直ちに人をして其誠意に服しむ。」(倉澤家所蔵 『敬神崇祖』倉澤義随手記より)