17章「連綿社」解散の謎

1、ガラ紡機急速に普及

安曇野市堀金歴史民俗資料館に保存されているガラ紡機

展示会場で筆者撮影
 第一回内国勧業博覧会が開催された明治10年頃から、ガラ紡機の普及が著しい。明治10年頃という時期は、「9章 機械織機の謎」で述べたように、西洋から伝来した織機に用いられる”飛び杼”という道具が日本国内で使われ始める。飛び杼が普及することにより、英国産の質の良い綿布に押されて、壊滅的な打撃を受けていた国内の問屋制家内工業の棉織物業は、飛躍的な生産性向上が可能となり、急速に回復し、綿織物の材料となる綿糸の需要が高まった。加えて、外国綿糸の大量輸入により国内の綿糸生産の圧迫に危機感を持った明治政府が、明治11年に英国のマンチェスターからミュール2、000錘紡績機2台を購入し、官営紡績所を設立し、その後も次々と官営工場を設立し、民間に払い下げた。すなわち日本の国力強化に紡績、綿織物工業が不可欠であるという認識が、日本国内で共有化され、民間でも紡績業に対する投資が、促進されたのである。ただし、明治政府が導入したミュール機は、インドやエジプト綿花の使用を想定しており、それらの綿花より繊維の長さが1cm程短い日本国産の綿花では、十分に性能を発揮せず、結局民間に払い下げても赤字経営が続いた。
その後明治15年に渋沢栄一らの主唱で、大阪に近代的設備を備えた大阪紡績会社(東洋紡)が設立され、これが刺激となり、明治19年から5~6年の間に、20社に及ぶ紡績会社が次々と設立され、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようななる。しかし、これらの会社に設備された紡績機も、初めのうちは上質な綿糸を作ることが出来ず、当面はガラ紡機で紡がれた綿糸にとって代わることを目標にした時代もあった。すなわち、外国産の綿糸、綿布の集中豪雨的な輸入に対して、日本企業の紡績工場が立ち上がるまでの空白の20年余りの間を、西洋の技術を使わないまったく日本独自の方式の紡績機が、日本国内で使用された綿糸の全体の割合にしてはわずかではあるが、健闘し立ち向かうのである。その先駆けとなったのが、明治10年頃のガラ紡機の急激な普及である。
何度も書いてきたが、松本開産社内で紡績業を企画した辰致と協力者は、この急速なガラ紡機の需要を想定しておらず、このため彼らは組織を変革して、連綿社と名付け、ガラ紡機の需要には連綿社の支社を設立するという方向で対応しようとするのである。しかし時代は現在とは違い明治初期である、当時としては先進的と思われる連綿社の組織も、支社を各地に設立して、支社の利益を本社側で吸い上げようとする試みは多くの障害があり、支社が立ち上がる前に結局は破綻いていくことになる。そもそも、上には欧米からの輸入の上等な綿糸があり、下には問屋制家内工業の手紡績の綿糸がある状態において、それにはさまれる形のガラ紡機による綿糸の製造は、それほど爆発的な利益を生む構造ではなく、大々的な紡績工場を造ろうとすると、ガラ紡機に対する投資額も膨らむことになる。そのような理由で、各地に競うように設立された連綿社の支社も、2年余りの間に次々と閉鎖になり、松本の連綿社も明治13年12月には解散を余儀なくされ、その結果臥雲辰致がこの会社を引き継いで、百瀬軍次郎(辰致の妻の従弟)とともに連綿社の紡績業務を引き継ぐことになる。

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