
水車小屋と紡糸機械場が見える 詳しくは「松本移住の謎」の章を参照の事)
1、辰致と「開産社」
本章では、信州大学教授であった有賀義人(著)「信州の啓蒙家 市川量三とその周辺」(以下「市川量三とその周辺」)、愛知大学文学部人文社会学科歴史・地理学コース編 大久保久彦(著)「近代における信州平田門人の展開ー倉澤清也ーと勧業活動を中心にー」、中村寅一(著)「開産社始末」(ー明治初期に於ける地方勧業金融の一例ー)等の資料を基に開産社の謎に迫る。
2、「開産社」の前身「勧業社」
抑(そもそも)予備なくして凶荒に遇ひ、餒(う)へて溝壑(こうがく=どぶ)に転し、寒へて街衢(がいく=ちまた)に倒る、愁苦(しゅうく=くるしみ)焉(これ)より大いなるはなし。此時に膺(あた)り偶(たまたま)糶発(ちょうはつ=穀物を出す)して之を賑はす(貧しいものに金品を与えて救いめぐむ)者あり。其の志素より嘉賞(かしょう=ほめたたえる)するに足ると雖も、目下の凍餒(とうたい=寒さと飢え)を拯(すく)ふに過ぎす。吾県令閣下勧業(開産)の方法を設け、常に此等の貧民を富まし、卓然自主の権を有せしめんと欲し玉ふと事茲に年あり。故二千五百三十三年十一月十六日(明治6年) 県庁問題を下して之を議せしめしに、到底会社を置きて財本を貯蓄し、貧民の求需を待って之を貸与し、欲するところを為さしめて其のその成功を責むるに若くなきの旨に同意せり。社中権令閣下民を愛するの至渥(しあつ=うるおいにいたる)と、議者の貧民を外視せすして此会社を創立し、管内の幸福を謀らんとするの厚意に基き、以て会社設立す。名づけて之を勧業社と云う。(カタカナは平仮名に筆者が変換)
勧業社の元資は、大まかな分類で次のようになっていた。
1、 県令、県官及び有志からの募金。
2、 大蔵省からの無利子の融資。
3、 一般庶民から徴収。
大蔵省からの無利子の融資は、”拝借金”と称し、融資にあたり政府から担保の提供を申し渡され、勧業社社長となった大区長30名が各自所有の土地を抵当として提供した。一般庶民からの出資は、農地や宅地の面積をもとに雑穀や米を相場で代金に換算して徴収した。
「勧業社条例」(後に「開産社条例」)には受けた融資は、次のような事業を行うことに使用しなければならないことになっていた。
2、 養蚕牧牛ヲ始メ、豚、鶏、家鴨を盛大ニ蓄フ事
3、 新溜池ヲ築キ旱損ノ患ナカラシメ、且畑田成ヲ目論見可キ事
4、 山繭ヲ養ウ事
5、 石炭ヲ鑿(サク)リ蒸気機械ヲ製シ、百工技芸ヲ起ス事
6、 薩摩芋、馬鈴薯等ヲ栽付ル事
7、 利器ヲ造リ善良製糸ヲナス事
3、「勧業社」から「開産社」へ
そして準備が整った、明治8年3月15日、開産社は前身の勧業社を引き継ぐ形で、開社式を挙行した。開産社の本局は東筑摩郡北深志町に置き、支局を飯田・高山等に置く。1月に決定された「開産社規則」により、勧業社と同様筑摩県下三十大区長が全員社長に任命され、7月頃から三名前後の定詰社長が選任された。
このように、初代筑摩県権令永山盛輝の肝いりで、30名の大区長を社長[3]としてスタートした開産社であるが、設立2年目にして難局に直面する。開産社の主唱発案者永山権令は新潟県権令に栄転して去り、明治9年6月16日、筑摩県庁火災により、同年8月21日、筑摩県は廃止され、筑摩県管下は長野県に合併され、管下の一部飛騨国は岐阜県に合併された。したがって飛騨よりの積立金は分割して岐阜県庁に引き渡された。更に長野県の意向により、明治九年度を限りに、毎年の積穀の実行は、廃止されてしまう。県の支援が無くなった開産社に、更なる逆風が吹く。明治11年7月に「郡区町村編成法」の施行により、大区がなくなり、郡制が敷かれそれまで大区単位で物事が運ばれていたものが、郡単位で決めなくてはいけなくなった。そのため結局開産社は、郡単位で独立することになり、開産社の分離解散へとつながっていくことになる。下にその辺の年譜を掲げておく。
〇明治5年 政府は、画一的な大区小区制をしき、郡を大区に、大区を小区に分け、大区に区長、小区に戸長を置いた。戸長も官選で、身分は官吏に準じ、他府県人や士族が任命された地域もある。更に、戸長を通じて、徴兵制や学制、地租改正が強権的に実施される。中には戸長が民衆の憤激の矢面に立った地方も少なくない。筑摩県は第3大区に属す(後に大2大区)
〇明治6年 県内に30大区199小区を置く。
〇明治9年6月19日 深夜筑摩県庁から火災発生、県庁舎焼失。
〇明治9年8月21日 第2次府県統合により、筑摩県のうち信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県に合併され、筑摩県が廃止される。
4、北原稲雄[3]と松本新聞との対立
北原稲雄辞任後、「改正法案」起草委員として樋口与平・上篠四郎五郎ら五名が選出され、松沢求策も参加。14年に入り、「改正法案」に基づき南部七郡[5]で改正委員五一名を選出する。その後規則改正会議が何度か開催されるが、欠席者が多く議事がまとまらなかったようである。同年9月にようやく規則改正案を決議するに至る。明治14年11月、南部七郡から選出された議員”>[4]により社長選挙が実施され、上伊那郡小野村の在野の倉澤清也が当選する。なお上記起草委員の樋口与平は北原稲雄の弟であり、倉澤清也[4]社長就任後、7人が任命された副社長の一人となり社長の清也を補佐する。
5、開産社の苦悶と終息
このような困難な状況下で、倉澤清也以下新たに選出された人たちは、鋭意この回収整理に努め、県借用金及び、大蔵省拝借金等順次償還を行った。明治17年7月より明治18年6月までの開産社考課帖付属票によると、金1,776円29銭9厘の純利益を出している。しかしこの時期、各地に設立された銀行は、ほぼ同様の業務を司る開産社存続の意義を減じ、明治18年9月の通常総会成義案に開産社の解散分離の議案が提出されるに至り、貸付金の回収がほぼ終了した明治21年、開産社はその役目を終えて解散する。結局、拝借金は全て完済し、貸付金を含む総資産53、000円余りの資産を計上し、これを最初の積穀高に按分し各郡に分配したのである。
5、ガラ紡機、開産社内の展示場に
[1] 連綿社に関しては「連綿社条約の謎」の章を参照のこと。
[2]永山盛輝

薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれる。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した。戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した。
明治2年2月28日(1869年4月9日)会計官御東幸中用度司判事に就任。その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任。明治3年6月23日(1870年7月21日)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。明治4年11月20日(1871年12月31日)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873年3月、同権令に昇進。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した。1875年10月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力。
[2]北原稲雄
文政8年2月3日生まれ。信濃(しなの)(長野県)伊那郡座光寺村の名主。平田篤胤(あつたね)の没後の門人となり、遺著「弘仁暦運記考」の出版をたすける。元治(げんじ)元年天狗(てんぐ)党の伊那谷通過を援助。維新後は松本開産社社長。明治14年10月2日死去。57歳。号は鏑廼舎(かぶらのや)。歌集に「雪の信濃路」「鏑廼舎歌集」。
[3] 開産社設立当時の社長であるが、中村寅は「開産社始末」の中で「松本市史下巻(390頁)」を参照して、『筑摩県税課中属北原稲雄を社長に任命し、発起人たりし三十大区長三十名を副社長とし、尚その他に開産社方六十七名を任命した』とあるが、北原稲雄が初代の社長に任命されたという記録は無い。北原稲雄が何時開産社の代表社長に任命されたかは不明なれど、明治10年前後ではないかと推測される。
[4]倉澤清也(きよなり) 義随とも称した。 幕末から明治にかけて信州伊那谷の平田門人の中心的な人物。島崎藤村著「夜明け前」には倉澤義髄(義随ではない)として登場。清也の妻女礼津は臥雲辰致の支援者武居美佐雄の従妹。
[5]南部7郡 東筑摩郡、西筑摩郡、諏訪郡、南安曇郡、北安曇郡、上伊那郡、下伊那郡の7郡を指す。筑摩県時代の行政区分を継承した区分表現で、開産社の営業圏は南部7郡内であった。