7章 開産社の謎

東筑摩郡南深志町

kenkan

(長野県市町村誌 南信編 より。 右上にガラ紡機が展示されていた
水車小屋と紡糸機械場が見える 詳しくは「松本移住の謎」の章を参照の事)

1、辰致と「開産社」

 明治9年5月、臥雲辰致と有志者は、松本にあった開産社という会社の中に、後に”連綿社[1]”と名付ける、機械織と綿紡績の工場を設立し、波多村の川澄家水車小屋で稼働実験を行った機械織機とガラ紡機を、開産社内に移転するとともに、辰致自もこの工場内に住居を定めた。そしてその後、再び波多村に戻る明治17年までの約8年間、開産社が、辰致の主な活動場所となる。明治10年の辰致発明のガラ紡機に対して、第一回内国勧業博覧会で鳳紋賞碑を授与されるが、辰致を一躍有名にしたこの博覧会への出品と受賞も、松本開産社内から行われた。明治初期、まだ封建体制が色濃く残る時代に、廃仏毀釈により還俗した、殆ど資産を持たない元住職の辰致が、筑摩県の県庁所在地でもあった、松本の一等地の開産社内に工場を持ち住居まで構えることが出来たのは、いったいいかなる理由によるものだったのだろうか。その謎を解くには、明治8年に設立された開産社という特異な組織について理解する必要がある。しかしながら、開産社に関しては、その成り立ちからして謎が多く、資料が乏しい。
本章では、信州大学教授であった有賀義人(著)「信州の啓蒙家 市川量三とその周辺」(以下「市川量三とその周辺」)、愛知大学文学部人文社会学科歴史・地理学コース編 大久保久彦(著)「近代における信州平田門人の展開ー倉澤清也ーと勧業活動を中心にー」、中村寅一(著)「開産社始末」(ー明治初期に於ける地方勧業金融の一例ー)等の資料を基に開産社の謎に迫る。

2、「開産社」の前身「勧業社」

 明治初期、政府は輸入超過と国内産業不振という危機的状況に直面する。明治6年に大久保利通が政府の実権を把握すると、この状況を打破する為に内務省を設立して殖産興業政策を強力に推進することになる。これらのことに関して、民俗学者の中村寅一は「開産社始末」という論文の中で、高橋亀吉(著)「明治大正経済史」を引用しながら次のように書いている。

 明治新政府の当初の産業政策は保護干渉政策であつた。開国と同時に、新日本は西洋式産業の移植の必要に迫られた。それは当然商・階級舊(もと)町人の手によつて遂行さるべきであつた。しかし彼等は未だ之を移植し利用し得る実力を具へて居らず、その上幕末に於ける政治的経済的波瀾(はらん=波乱)のために、著しく疲弊し、且つ永き封建的壓制(あっせい)下の生活に馴れて清新なる気魄に欠けていたため、著しく保守的であつた。従つてかくの如き町人階級に、西洋式新産業組織の移植と云ふ様な、無経験な、しかも多大の危険を包蔵する大事業、は到底期待することは出来なかつた。そこで官営の形式に於て先づ政府が之の実行の衝に当たり、漸次之を民間に普及発達させ様とする計画が樹立されたのである。これと共に町人階級に於ける個人的な資力の不足を補ふために、当時欧米に於て既に発達していた近代的な会社組織に留意して、之の移植を断行した。例へば明治二年に全国の主なる富豪を糾合して為替会社を組織せしめたり、民間に銀行の勃興することを希望して、若し両替屋が社を緒び為替会社同様の業を管まんとする者があれば、資本の高を糺して(ただして=調査して)許容する旨を声明した。(通商司心得)四年には大蔵省より「立曾略則」(渋沢栄一著)「会社辯」(福地源一郎訳)等を発行頒布して「合本組織」の奨勧に全力を傾倒したのである。(高橋亀吉氏「明治大正経済史」22.23頁)。かくの如き中央政府の政策は、諸訓論として地方県庁に達し、当然殖産興業に影響を及ぼさずにはおかなかった。 以下に述べようとする開産社も、この影響の下に筑摩県下(現在の長野県東西筑摩上下伊那、南北安曇、諏訪の七郡及飛騨の一部)の住民全部を出資者とし、産業開発を目的 として、県権令永山盛輝の主唱により設立されたのである。
(中村寅一 「開産社始末」より)
話は少々錯綜するが、上記の明治8年に発足した開産社の前身は、明治6年に発足した勧業社である。勧業社と開産社の関係について、「市川量三とその周辺」に以下の記述がある。
筑摩県下松本に開産社が設立され、開社式が行なわれてその具体的な発足をみたのは、明治八年三月一五日のことであった。しかし開産社と全く同じ業務を内容とした勧業社設立の動きが、既に明治六年代におきており、同年七年四月には実際にその業務を開始していたのである。そして実はこの勧業社が、明治八年三月一五日にその名を変えて開産社となって再出発するのであるから、開産社を語るにはどうしてもこの勧業社から始めなくてはならないことになる。 筑摩県権令永山盛輝[2]は、明治六年二月一六日の下間会議のに、管下三六大区の区長を始めとする下門会議々員を集めて、殖産興業、窮民救済のための会社設立のことを下問したが、「勧業社条例」第一条「発行旨趣」はその間の状況を次のようにのべている。
抑(そもそも)予備なくして凶荒に遇ひ、餒(う)へて溝壑(こうがく=どぶ)に転し、寒へて街衢(がいく=ちまた)に倒る、愁苦(しゅうく=くるしみ)焉(これ)より大いなるはなし。此時に膺(あた)り偶(たまたま)糶発(ちょうはつ=穀物を出す)して之を賑はす(貧しいものに金品を与えて救いめぐむ)者あり。其の志素より嘉賞(かしょう=ほめたたえる)するに足ると雖も、目下の凍餒(とうたい=寒さと飢え)を拯(すく)ふに過ぎす。吾県令閣下勧業(開産)の方法を設け、常に此等の貧民を富まし、卓然自主の権を有せしめんと欲し玉ふと事茲に年あり。故二千五百三十三年十一月十六日(明治6年) 県庁問題を下して之を議せしめしに、到底会社を置きて財本を貯蓄し、貧民の求需を待って之を貸与し、欲するところを為さしめて其のその成功を責むるに若くなきの旨に同意せり。社中権令閣下民を愛するの至渥(しあつ=うるおいにいたる)と、議者の貧民を外視せすして此会社を創立し、管内の幸福を謀らんとするの厚意に基き、以て会社設立す。名づけて之を勧業社と云う。(カタカナは平仮名に筆者が変換)
(「信州の啓蒙家 市川量三とその周辺」170~171P)
勧業社設立の目的は、殖産興業をもって貧民を富ますとともに、財本を蓄積し、助けが必要な貧民にこれを貸し出すことが出来る会社の設立にあった。
勧業社の元資は、大まかな分類で次のようになっていた。
1、 県令、県官及び有志からの募金。
2、 大蔵省からの無利子の融資。  
3、 一般庶民から徴収。      
大蔵省からの無利子の融資は、”拝借金”と称し、融資にあたり政府から担保の提供を申し渡され、勧業社社長となった大区長30名が各自所有の土地を抵当として提供した。一般庶民からの出資は、農地や宅地の面積をもとに雑穀や米を相場で代金に換算して徴収した。

「勧業社条例」(後に「開産社条例」)には受けた融資は、次のような事業を行うことに使用しなければならないことになっていた。

「勧業社条例」
1、 荒蕪ノ地ヲ拓キ桑、茶、楮、莨、藍、其他果実等地味ニ応ジ之ヲ栽培スベキ事
2、 養蚕牧牛ヲ始メ、豚、鶏、家鴨を盛大ニ蓄フ事
3、 新溜池ヲ築キ旱損ノ患ナカラシメ、且畑田成ヲ目論見可キ事
4、 山繭ヲ養ウ事
5、 石炭ヲ鑿(サク)リ蒸気機械ヲ製シ、百工技芸ヲ起ス事
6、 薩摩芋、馬鈴薯等ヲ栽付ル事
7、 利器ヲ造リ善良製糸ヲナス事

3、「勧業社」から「開産社」へ

 上記の如く県権令主導のもとに立案された勧業社であったが、直ちに一般の農民がその仕組みや目的を理解することは難しく、当時有力者によって占められていた戸長などの説服(せっぷく=ときふせる)と、一般県民の出資方法の賛意を得るために予想以上の日時を要したと「開産社始末」にある。
そして準備が整った、明治8年3月15日、開産社は前身の勧業社を引き継ぐ形で、開社式を挙行した。開産社の本局は東筑摩郡北深志町に置き、支局を飯田・高山等に置く。1月に決定された「開産社規則」により、勧業社と同様筑摩県下三十大区長が全員社長に任命され、7月頃から三名前後の定詰社長が選任された。
このように、初代筑摩県権令永山盛輝の肝いりで、30名の大区長を社長[3]としてスタートした開産社であるが、設立2年目にして難局に直面する。開産社の主唱発案者永山権令は新潟県権令に栄転して去り、明治9年6月16日、筑摩県庁火災により、同年8月21日、筑摩県は廃止され、筑摩県管下は長野県に合併され、管下の一部飛騨国は岐阜県に合併された。したがって飛騨よりの積立金は分割して岐阜県庁に引き渡された。更に長野県の意向により、明治九年度を限りに、毎年の積穀の実行は、廃止されてしまう。県の支援が無くなった開産社に、更なる逆風が吹く。明治11年7月に「郡区町村編成法」の施行により、大区がなくなり、郡制が敷かれそれまで大区単位で物事が運ばれていたものが、郡単位で決めなくてはいけなくなった。そのため結局開産社は、郡単位で独立することになり、開産社の分離解散へとつながっていくことになる。下にその辺の年譜を掲げておく。
〇明治4年 第1次府県統合により信濃国伊那県、高島県、高遠県、飯田県、松本県、飛騨国高山県が統合され、飛騨国および信濃国中部・南部に筑摩県が発足。県庁は筑摩郡松本(現在の長野県松本市丸の内)の松本城に設置。飯田城と高山陣屋に支庁が設置された。
〇明治5年 政府は、画一的な大区小区制をしき、郡を大区に、大区を小区に分け、大区に区長、小区に戸長を置いた。戸長も官選で、身分は官吏に準じ、他府県人や士族が任命された地域もある。更に、戸長を通じて、徴兵制や学制、地租改正が強権的に実施される。中には戸長が民衆の憤激の矢面に立った地方も少なくない。筑摩県は第3大区に属す(後に大2大区)
〇明治6年 県内に30大区199小区を置く。
〇明治9年6月19日 深夜筑摩県庁から火災発生、県庁舎焼失。
〇明治9年8月21日 第2次府県統合により、筑摩県のうち信濃国が長野県に、飛騨国が岐阜県に合併され、筑摩県が廃止される。

4、北原稲雄[3]と松本新聞との対立

 開産社は30名の大区長を社長としスタートしたが、筑摩県廃県後の明治10年前後に、北原稲雄が専任社長に就任する。北原稲雄は明治9年の筑摩県廃止まで官吏を務め、8年時は十等出仕であった。12年5月、北原稲雄社長は困窮士族救済のための特別措置に関する「奉願」を県へ提出する。8月、市川量造・松沢求策らが『松本新聞』にて北原社長の「専断」と士族優遇措置を攻撃し始める。2月、長野県は開産社に対して社則改正要求の通牒と改正会議の社員召集を要求。実質的な県の経営介入に対し、北原は反発、翌13年2月、社則改正協 議会が県官を迎えて開催されるが、北原は県側の主張(開産社の完全民営化要求と北原の「専断」に対する非難)に反発し、途中退席しそのまま辞職する。

北原稲雄辞任後、「改正法案」起草委員として樋口与平・上篠四郎五郎ら五名が選出され、松沢求策も参加。14年に入り、「改正法案」に基づき南部七郡[5]で改正委員五一名を選出する。その後規則改正会議が何度か開催されるが、欠席者が多く議事がまとまらなかったようである。同年9月にようやく規則改正案を決議するに至る。明治14年11月、南部七郡から選出された議員”>[4]により社長選挙が実施され、上伊那郡小野村の在野の倉澤清也が当選する。なお上記起草委員の樋口与平は北原稲雄の弟であり、倉澤清也[4]社長就任後、7人が任命された副社長の一人となり社長の清也を補佐する。

5、開産社の苦悶と終息

倉澤清也が開産社社長となった明治14年、開産社は県の保護干渉を脱し、完全な民営となる。しかしながらこの後開産社に待っていたものは、決して平坦な道ではなかった。明治14年ごろは、不換紙幣の暴落により、この対策として、紙幣整理政策が実行されつつあり、物価は暴落し、経済の不振により貸付金の回収は滞った。開産社の染織工場も損失が多く、経営困難となり、明治16年には民間人に貸与し、事業継続を図るに至った。
このような困難な状況下で、倉澤清也以下新たに選出された人たちは、鋭意この回収整理に努め、県借用金及び、大蔵省拝借金等順次償還を行った。明治17年7月より明治18年6月までの開産社考課帖付属票によると、金1,776円29銭9厘の純利益を出している。しかしこの時期、各地に設立された銀行は、ほぼ同様の業務を司る開産社存続の意義を減じ、明治18年9月の通常総会成義案に開産社の解散分離の議案が提出されるに至り、貸付金の回収がほぼ終了した明治21年、開産社はその役目を終えて解散する。結局、拝借金は全て完済し、貸付金を含む総資産53、000円余りの資産を計上し、これを最初の積穀高に按分し各郡に分配したのである。

5、ガラ紡機、開産社内の展示場に

 開産社の主力業務は金融業で、今でいう信用金庫のような業務が多かったと推測されるが、殖産興業の為に農業振興や、良品を製造する為の物産展覧会の為の物品展示場も提供しており、この物品展示場が開かれる前、県は村々に対して、物品展示場に展示すべき模範的な物品の提出を催促している。当時波多村の戸長であり、開産社の社長等と姻戚関係があり、更に平田門下生でもあった武居美佐雄は、開産社の趣旨に賛同し、辰致の発明品の動態展示実現に動いたものであろう。すなわち、臥雲辰致と支援者は開産社の中に、水車場を設け、その動力でガラ紡機と辰致発明の織機を稼働させる。後にこれが、開産社の物品展示場の目玉になったと思われる。

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[1] 連綿社に関しては「連綿社条約の謎」の章を参照のこと。

[2]永山盛輝

(Wikipediaより)
初代筑摩県権令永山盛輝
永山 盛輝(ながやま もりてる、1826年9月16日(文政9年8月15日) – 1902年(明治35年)1月18日)は、幕末の薩摩藩士、明治期の官僚・政治家。新潟県令、元老院議官、貴族院勅選議員、男爵。通称・清右衛門、左内、正蔵。
薩摩藩士・永山盛広の息子として生まれる。勘定奉行、江戸留守居役を務め藩政改革に尽力した。戊辰戦争では東征軍の薩摩藩兵監軍として従軍し各地に転戦した。
明治2年2月28日(1869年4月9日)会計官御東幸中用度司判事に就任。その後、大蔵省用度権大佑、民部省監督権大佑を歴任。明治3年6月23日(1870年7月21日)伊那県出仕に転じ、租税大佑と同県少参事心得を兼任。同県少参事、同大参事を歴任。明治4年11月20日(1871年12月31日)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、1873年3月、同権令に昇進。筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した。1875年10月、新潟県令に転任。戊辰戦争からの復興のため士族女子の救済施設「女紅場」の設置や、小学校の就学率の向上に尽力。
(Wikipedia より)

[2]北原稲雄

1825-1881 幕末-明治時代の国学者。
文政8年2月3日生まれ。信濃(しなの)(長野県)伊那郡座光寺村の名主。平田篤胤(あつたね)の没後の門人となり、遺著「弘仁暦運記考」の出版をたすける。元治(げんじ)元年天狗(てんぐ)党の伊那谷通過を援助。維新後は松本開産社社長。明治14年10月2日死去。57歳。号は鏑廼舎(かぶらのや)。歌集に「雪の信濃路」「鏑廼舎歌集」。
「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」より
稲雄が士族を救済しようとしたのは、、廃藩置県後、華族・士族には政府から禄が与えらていたが、明治9年8月に金禄公債というものを発行して、家禄の支給を打ち切った。これらの変革を「秩禄処分」と呼ぶが、これは士族の犠牲によって、地租納入者、すなわち土地を持つ農民や商人を潤すこととなった。しかし、これにより士族階級の生活の困窮は増すことになり、北原稲雄はそれらの士族にささやかな救いの手を差し伸べようとしたのであろう。

[3] 開産社設立当時の社長であるが、中村寅は「開産社始末」の中で「松本市史下巻(390頁)」を参照して、『筑摩県税課中属北原稲雄を社長に任命し、発起人たりし三十大区長三十名を副社長とし、尚その他に開産社方六十七名を任命した』とあるが、北原稲雄が初代の社長に任命されたという記録は無い。北原稲雄が何時開産社の代表社長に任命されたかは不明なれど、明治10年前後ではないかと推測される。

[4]倉澤清也(きよなり) 義随とも称した。 幕末から明治にかけて信州伊那谷の平田門人の中心的な人物。島崎藤村著「夜明け前」には倉澤義髄(義随ではない)として登場。清也の妻女礼津は臥雲辰致の支援者武居美佐雄の従妹。

[5]南部7郡 東筑摩郡、西筑摩郡、諏訪郡、南安曇郡、北安曇郡、上伊那郡、下伊那郡の7郡を指す。筑摩県時代の行政区分を継承した区分表現で、開産社の営業圏は南部7郡内であった。