15章 ガラ紡機販売の謎

1、新たなる展開

 これまで書いたように、臥雲辰致は3人の有志とともに松本開産社内に、有志が資金を出して設立した水車場と、それに隣接した開産社所有の建物を借り、紡績業を中心とした棉布工場を始めようと計画した。「連綿社条約書」の記載内容により、波多村や開産社内で実験的に加増させた試作機以外の最初のガラ紡機は、連綿社の前身であった綿糸工場に設置されたことは間違いないであろう。おそらく最初に設置されたガラ紡機の数は、太糸用百個口6台で、綿糸工場設立、ガラ紡機設置の後、辰致は開産社内に移住し、紡糸会社の社員としてこの会社から給与を得て、ガラ紡機の整備や改造をする予定であった。しかし紡糸工場の生産が立ち上がる前に、ガラ紡機の販売が始まり、辰致はガラ紡機の据え付けや、使い方の指導に忙殺されることになる。このことは、辰致や3人の有志達にとって想定外のことであった。もともと彼らは、開産社内の工場で綿花を仕入れ、紡績により綿糸を生産し、それを織って綿布にし、その綿布を開産社内の染物工場で染色し販売することを目指していた。そしてその事業を徐々に拡大し、それを松本の産業の一つの柱として育成していくというのが、筑摩県、開産社、辰致達の紡糸会社の一致したビジョンであった。「8章 松本移住の謎」の中で掲載した開産社の絵図の中で、辰致の工場に隣接して「開産社女工場」が設立されており、記録によるとその中には、教師2人、生徒37人の人員を抱えていたとの記録があるが、これにより前述した構想の一端を見ることが出来る。
しかしながらガラ紡機を他の業者に売るという行為は、あり意味で自分たちが作った紡糸会社の競争相手を作ることであり、何より一番問題なのは、設立した紡糸会社の唯一の技術者であり、まだ完全には確立されていないガラ紡機での紡績という未知の世界を切り開き、この事業の先頭を走るべきところの辰致が、多忙になってしまうことであった。それらの葛藤の中、開産社内の紡糸会社は「連綿社」と名付けられ、その「条約書」の中には、辰致に対する他の3人のいらだちが見え隠れする。結果的に、ガラ紡機は売られ、その簡単な構造からコピー商品が作られ、あっという間に全国に普及することになる。そして臥雲辰致が行う予定であったガラ紡機の条件出しや改良は、ガラ紡機の使用者により全国規模で行われ、筑摩県や開産社や臥雲辰致と有志が目指していた国産初の紡績機を使った紡績業は、松本開産社内に作られた連綿社を飛び越えて、全国規模で展開された。むろんこの時点では辰致も含め有志達もそのような結果は知らない。

2、ガラ紡機販売に関する混乱

榊原金之助(著)「臥雲辰致翁伝記」の中に明治10年頃から13年頃にかけて結ばれた契約書の内容が掲載されている。残念ながら筆者の手元にある「臥雲辰致翁伝記」は、一部欠損があり、すべての契約書を確認することは出来ないが、その契約書の内容を読むと、当時のガラ紡機販売に関する混乱が垣間見える。そもそもガラ紡機そのものは、臥雲辰致が幼いころよりその開発に心血を注ぎ、誰の助けも得ないで独自に開発したものであり、その販売に関しての権利は一義的に辰致にあった。しかし辰致が住居としていた場所は、草深い堀金の山の中腹の廃寺であり、辰致の発明がいかに優れているものといえども、この時代その機械を全国に知らしめる方法は無かった。すなわち、ガラ紡機が松本の中心で動態展示され、第一回内国勧業博覧会で賞を獲得し、全国的に有名になったのは、辰致を支援した3名の有志による支援と、資金提供によるものといえる。したがって、有志3名が、それまでの見返りを要求するのはごく当然のことといえる。そこで辰致と有志3人は急ぎガラ紡機販売の利益分配について取り決めをすることになる。「臥雲辰致翁伝記」に掲載されている規約書は、利益分配の方法が確定するまでの混乱を表している。すなわち、契約者の氏名が臥雲辰致のみであったり、臥雲辰致と協力者との連名であったり、また契約者が連綿社の社長である波多腰六左であったりしている。更に契約書の中に『不都合が生じても貴殿には迷惑をかけない』等と書いた臥雲辰致宛松沢何某なるものの「条約書」まである。
契約書の中におそらくこれがガラ紡機の最初の販売であろうと思われる。「仮契約書」が存在するのでそれを紹介する。
ガラ紡機販売の仮契約書

北野進(著) 「臥雲辰致とガラ紡機」より
上の資料は題名と契約者のみ書かれていて、本文は省略されているので、榊原金之助著「臥雲辰致翁伝記」よりの本文を参照する。
假約定書
長野県下筑摩郡松本ニ於テ臥雲辰致発明紡糸器械ヲ山梨縣下ヘ建設候ニ付假約定左之通
一、器械製造中ハ辰致山梨縣下ヘ出張シ在来器械ノ上ニ尚精密深理ヲ窮メ至便ノ術策ヲ盡シ設立可候事
一、製作中官立私立ニ拘ラス該所ノ指揮違背ノ有間敷候事
一、製造中該職工ノ儀ハ辰致見込ヲ以存分ニ指揮可致候事
一、製作ニ付費用金ノ儀ハ何程ニテモ山梨縣ニヲイテ速ニ出金可致候
一、成功期限ノ儀ハ着手ノ日ヨリ凡百日間一具整頓ニ仕上ゲ可候事
一、機械整頓営業ノ上利潤金産生可致ハ勿論ニ付用信分配方法ノ儀至当ノ公法着手ノ節確定可致候
一、山梨縣ニヲイテ右発明ニ拘ラス別途ノ発明ニテ設立相成候上ハ臥雲辰致更ニ関係有之間敷候事
右条件之通假定約相結候處双方聊異議有之間敷尚追テ本定約、引替可申候己上
上記仮約定書にはいくつかの不明な点が存在する。
先ずこの仮約定書の日付”明治十年閏第五月一日”であるが、以下に明治時代初期の閏月とその年を掲げる。

明治1年から14年までの閏月
1868 明治01年 閏4月
1869 明治02年
1870 明治03年 閏10月
1871 明治04年
1872 明治05年
1873 明治06年 閏6月
1874 明治07年
1875 明治08年
1876 明治09年 閏5月
1877 明治10年
1878 明治11年
1879 明治12年 閏3月
1880 明治13年
1881 明治14年 閏7月
上記のように明治10年に閏5月は無い。閏5月があるのは明治9年であるので、この約定日を明治9年五月とすると、臥雲辰致にの住所に書かれている「長野県 東四大区三小区 筑摩郡 波田村寄宿」となっている個所に問題が生じる。筑摩県が長野県になったのは明治9年8月であり、明治9年5月はまだ筑摩県であったはずである。したがって”閏五月”が違っていると断定せざるを得ないのだが、更に混迷を深める資料が存在す。

2、金丸平甫とはどのような人物か

上に書いた「仮約定書」の契約者である金丸平甫に関して、「山梨縣人物伝」に以下の記述がある。
金丸平甫

国立国会図書館所蔵「山梨縣人物伝」から
「山梨縣人物伝」によると金丸平甫は、「明治9年に長野県下松本で横山與市なる人が紡績器を発明した事に興味を持って、面会してその機械を山梨県に導入する為に保証人となった。」とある。すなわち金丸平甫は臥雲辰致ではなく横山與市から機械を買ったことになる。それでは横山與市はいかなる人物であったか。実は明治十一年明治天皇の北陸東海両道御巡幸の折に長野県庁横に設立された勧業物品陳列場で、筑摩郡波多村臥雲辰致、筑摩郡南深志町横山與一郎、安曇郡倭村上兼與四郎、上條紋治、伊那郡里見村滝口重内らが綿紡器械を展覧いただいたとの記録がある。すなわち、「山梨縣人物伝」に金丸平甫が面会したとある横山與市は、天覧記録にある横山與一郎に間違いないと思われる。少々話が錯綜するが、「假約定書」があるので、金丸平甫がガラ紡機購入を検討したことは確かであり、「山梨縣人物伝」は臥雲辰致と横山與一郎を取り違えたのであろう。いずれにしても、ガラ紡機は第一回内国勧業博覧会前に、山梨縣下に導入された可能が強い。
追記訂正あり