〇辰致「履歴書」の中に、明治8年にガラ紡機の専売特許願いを官に提出したとの記述がある。
〇2016年にこの専売特許願いの草稿が発見された。
〇辰致は当時発刊された中村正直著の「西国立志編」の影響を受けた。
1、明治8年のガラ紡機「専売特許願」発見
辰致が明治8年に筑摩県に対して、ガラ紡機の専売特許願を出したということは、さまざまな本や特許に関する書類の中に登場する。しかしそれらの本や書類の中には提出された専売特許願に関する具体的な資料は無く、それらの本や書類は、臥雲辰致の履歴書に書かれている「官ニ請願シテ紡績機械専売免許ヲ求ム」の一節を専売特許願い提出の論拠としている。明治維新からわずか8年、ほとんどの日本人が「専売特許」という概念すら持たず、日本にまだその制度[1]が整っていない時代に、首都の東京からならともかく、草深い筑摩県の烏川村の山中の廃寺跡の住む僧侶上がりの農民から、紡績機の専売特許願が出されるなどということがあるのだろうか。この問いにたいして、臥雲辰致の伝記作家や研究者達も答えることは出来なかった。
しかし最近になってこの「専売特許願草稿」というべき書類が出てきた。しかもこの書類の中には、今まで臥雲辰致に関して語られてこなかった驚くべき事実が書かれている。
2、「専売特許願草稿」発見の経緯

それから数日後、『臥雲辰致 「ガラ紡」展示会』が終盤近くになった10月26日、筆者は松本市内に所用があり、その帰りに中町の展示場を訪れた。この時に臥雲弘安氏から臥雲辰致に関する、一通の文書の提示があった。この文書は「微臣臥雲辰致」から始まる漢語で書かれたもので、臥雲辰致から筑摩県権令永山盛輝に宛た、専売特許の請願書草稿であった。この文書は長野県安曇野市穂高柏原在住の中島寛行氏が所蔵するもので、氏は以前からこの文書の存在が気になっており、『臥雲辰致 「ガラ紡」展示会』が開催されていることを知り、途中からこの文書の展示を主催者にお願いしたとのことであった。中島家は明治の初めころ、臥雲辰致が住職であった孤峰院の本院安楽寺の檀家であり、その関係でこの文書があるのではないか、とのことであった。
以下にこの「専売特許願草稿」の全文を記載するとともに、筆者の概訳を示す。
3、「専売特許願草稿」の全文


2 ニ浴(あまね)ク億兆の精霊忽(たちま)チ膏澤ニ浴シ凱康ノ昭代ニ自
3 主ヲ保チ優渥ノ保界ニ自由ヲ安ンス孰(いずれ)カ此鴻慈(こうじ)
4 ヲ奉戴セサラン哉臣等固ヨリ蒙昧ノ愚民ト雖
5 モ屡(しばしば)欧米各国ノ説話ヲ聞キ独リ以為(おもえら)ク不敏トイエトモ
6 粉骨砕身思慮ヲ廻ラシ一事ヲ発明
7 シ人労ヲ略(はぶく)クノ器械ヲ造リ以テ國ノ開花ニ
8 應(こたえ)ント心ヲ竭(つく)シ精ヲ労シ月ヲ積ミ月ヲ重ネ
9漸(ようや)足袋底ニ用ユル所ノ太糸ヲ製スル機械ヲ
10 落成セリ此機凡(およそ)二十五貫目ヲ製スル器械ヲ
11 動カスノ水車ニ藉(か)ラハ一婦一日ニシテ綿三十抱ヲ製スヘシ
12 此測算ヲ以テ大ニ及ホサバ通常ノ水車ニシテ巨多
13 クノ綿糸ヲ製スヘシ抑(そもそも)太糸ノ製(つくる)ヤ多ク無能女ノ
14 業(わざ)ニシテ其撚賃僅カニ一抱一銭ニ満タス故ニ巧拙ニ関セス
15 徒ニ迅速ヲ欲シ自然意ヲ麤(そ)拙(せつ)ニ属スル故ニ諺
16 ニ無能業ト云フ宜(むべ)ナル哉コレヲ能クスルノ婦女果シテ
17 縫鍼紬績ノ年工ニ超エズ願クハ臣力紡糸機械戯
18 玩ノ具ニ似タリと雖モ尊覧ヲ請ヒ而后(てのち)普(あまねく)弘メ此流
19 弊ヲ洗除シ以テ報恩ニ供セント欲ス然(しかり)ト雖モ臣微力ニシテ造
20 営スル能ハズ依テ其ノ籌(ちゅう)謀(ぼう)ヲ佗(た)ヘ鬻(ひさ)クノ外ナシ庶幾(こいねが)ワクハ
21 期年ヲ限リ此機ヲ造リ過活セント欲スル者ヨリ必ス至
22 当ノ謝金ヲ請ケ以テ臣歳月ノ疲弊ヲ補ハン
13 事ヲ請フ誠恐誠惶頓首(とんしゅ)頓首
24
25 第九大区七小区
26 安曇郡烏川村岩原耕地
27 明治八年四月十日 臥雲辰致 印
28 筑摩県権令 永山盛輝 殿
万物精霊は急速に潤いをおび、確固たる繁栄の内に自主を保ち、憐み深い世の中に自由を安んじ、
この慈愛を受けない者がいるでしょうか。
私たちはもとよりつまらない者ですが、度々欧米各国の説話を聞き、独り考えるに、遅速と言え、
粉骨砕身で思考をめぐらせて一つのことを発明しました。すなわち人力を省く機械を作って
国の発展に応えようと歳月を重ね心を砕き、足袋の底に使用する太糸を紡ぐ機械を落成しました。
この機械はおよそ二十五貫目(94Kg)の重さで、これに水車につなぐと、
一人の作業婦人が一日三十抱への綿を紡ぐことが出来ます。
このように計算すると、普通の水車で私は大量の綿糸を作ることが出来ます。
太糸の生産の多くは技術力の低い婦女の仕事で、此の賃金は僅か二抱え一銭に満たないから
上手下手に関わらずいたずらに速く仕事をしようとして、粗い仕事になり諺に言う
「無能業」と言わざるを得ない状態になります。
これを上手に行う婦女子でも裁縫や紬などの熟練工の賃金を超えることは出来ません。
私の作った紡績機は玩具のように見えるけれど、ご覧いただいた後に普及させて、
旧習を払拭し以て国の恩に報いようと思うのですが、
私は微力なためこの計画を遂行するにあたり、他の人の力に頼らざるを得ません。
どうか期間を設定して、この機械を造って利益を得ようとする者に必ず謝礼金を払うようにお計らい頂き、
私の長年の苦労が報われるようにお願いしたい。
まことに恐れ多く、何度も頭を床に擦り付けてお願いします。
4、欧米の説話とは
「専売特許願草稿」を読んで最も驚愕するのは、以下の一文であろう。
5 モ屡(しばしば)欧米各国ノ説話ヲ聞キ独リ以為(おもへら)ク不敏トイエトモ
6 粉骨砕身思慮ヲ廻ラシ一事ヲ発明
7 シ人労ヲ略(はぶく)クノ器械ヲ造リ以テ國ノ開花ニ
8 應(こたえ)ント心ヲ竭(つく)シ精ヲ労シ月ヲ積ミ月ヲ重ネ
9 暫ク足袋底ニ用ユル所ノ太糸ヲ製スル機械ヲ
10 落成セリ此機凡(およそ)二十五貫目ヲ製スル器械ヲ
先ずは明治初めに活躍した2人の啓蒙家を紹介する。


現在、画像右の中村正直の名前を知る人は殆ど居ないが、明治4年、欧米人の成功談を集めた、サミュエル・スマイルズ著「自助論(Self-Help)」を「西国立志編」という名前で翻訳出版された本が、明治時代を通して100万部の大ベストセラーになった。実は臥雲辰致が明治8年に出した「専売特許願」の草稿の中にある『欧米の説話を聞き』という文の、『欧米の説話』とは中村正直(著)「西国立志編」を指すのであり、以下にその理由を述べる。
江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。
教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。
5、「専売特許願」の中の「西国立志編」

18 玩ノ具ニ似タリと雖モ尊覧ヲ請ヒ而后(てのち)普(あまねく)弘メ此流
「専売特許願」の中で使われた語句で、中村正直が「西国立志編」で使用したと思われる語句を参考のため列挙しておく。
2、「機械ヲ落成セリ」 — 「西国立志編」では機械を作り上げることを「落成」としばしば記載されている。
3、「戯玩ノ具」 — 「ワット、蒸気機器を作るのこと」
4、「此機ヲ造リ過活セント」 — 「ジョン・ヒースコートならびに線帯織機」
6、辰致発明品と「西国立志編」の関係
2、水車を動力とした織機
3、測量機
4、計算機
5、捩(もじ)り編み機
1769年ついに免状を得て、その機器の利を己に保護せらる。すなわちワットの蒸気機器の免状を得たる年なり。奇なるかな、はじめてノッティンガムに棉麿(コットンミル)を造り、馬力を持ってひかしめたり。その後、ダービーシャーに建てたるものは、その規制さらに大にして、水車をもって運転せしめり、このゆえに紡棉機器を水機と呼べり。
「西国立志編」「第二編 八 ワット蒸気機器をつくること」の中に『家人を養うために、象限儀(測量機)を造りこれを売り、…』との記述があるが、臥雲辰致の「履歴書」の中にも次の記述がある。
28 器ヲ作り望人ノニ應セリ….

7、臥雲辰致の資料の中に出てくる西国立志編の単語








8、中村正直は『science』⇒『科学』が翻訳できなかった。
(2019/10/17 加筆)

・原文と翻訳との違い
サミュエル・スマイルズはその著書Self Helpの中でジェームス・ワットについて次のように記述している。
『Even when a boy,Watt found science in his toys.』
直訳すると、”子供の時でさえ、ワットは彼のおもちゃの中に科学を見出した”となる。これを中村正直は、
『ワット、幼年の時戯玩の具を作ることに巧なりけり』
と訳している。これはどう見ても誤訳である。すなわち原文にある”science”という語句が訳されていない。おそらく明治4年頃には、science(科学)という概念が日本にはなかったと思われる。サミュエル・スマイルズのこの一文は、中村正直には次のように見えていた。
”Even when a boy,Watt found ??? in his toys.”(???は不明な単語)
そこで彼は、この一文を次のように解釈したのだろう。
”Even when a boy, Watt was good at making toys.”
・”戯玩の具”から”玩具”へ
中村正直は『toy』を”戯玩の具”と訳している。初版本の”戯玩”には”もてあそび”というルビがふったあったが、やがてこれは”ぎがん”に替わっている。
”おもちゃ”のことを”玩具”と書くようになったのは、中村正直が「西国立志編」を書いた後であると推測される。Wikipediaによると『玩具(がんぐ、おもちゃ)は、遊びに用いる対象物・道具のことであり、遊び道具とも呼称される。おもちゃの語源は平安時代の「手に持って遊ぶ」行為である「もて(もち)あそぶもの」であり、これが室町時代に省略と接頭語の添付を経て生まれた。』となっている。
・”戯玩の具”は武居正彦が書いた文書のスタンプである
臥雲辰致の”履歴書”の中にも”戯玩の具”という語句が出てくる、これはこの文書の原文を武居正彦が書いた証拠であると筆者は考えている。
[1] [専売略規則] 開国により欧米の特許制度が紹介され、明治4年(1871年)我が国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民は特許制度を理解し利用するに至らず、当局においても運用上の問題が生じたため、、明治5年に太政官布告第105号というもので、「新発明品専売免許当分廃⽌(明治5年3⽉29⽇)」となった。しかしながら、この中で、「但向後諸物品新発明致シ候者有之候ハヽ其管轄地⽅官ニテ発明品及其⼯夫ノ⼿続等詳細取調書ヲ以テ⼯部省ヘ可届出事」とされた。