3章「専売特許願」の謎(1)

この章のまとめ
〇辰致「履歴書」の中に、明治8年にガラ紡機の専売特許願いを官に提出したとの記述がある。
〇2016年にこの専売特許願いの草稿が発見された。
〇辰致は当時発刊された中村正直著の「西国立志編」の影響を受けた。

1、明治8年のガラ紡機「専売特許願」発見

 臥雲辰致に関する多くの謎の中に、辰致が明治8年に、筑摩県宛に提出したというガラ紡機の専売特許願がある。
辰致が明治8年に筑摩県に対して、ガラ紡機の専売特許願を出したということは、さまざまな本や特許に関する書類の中に登場する。しかしそれらの本や書類の中には提出された専売特許願に関する具体的な資料は無く、それらの本や書類は、臥雲辰致の履歴書に書かれている「官ニ請願シテ紡績機械専売免許ヲ求ム」の一節を専売特許願い提出の論拠としている。明治維新からわずか8年、ほとんどの日本人が「専売特許」という概念すら持たず、日本にまだその制度[1]が整っていない時代に、首都の東京からならともかく、草深い筑摩県の烏川村の山中の廃寺跡の住む僧侶上がりの農民から、紡績機の専売特許願が出されるなどということがあるのだろうか。この問いにたいして、臥雲辰致の伝記作家や研究者達も答えることは出来なかった。
しかし最近になってこの「専売特許願草稿」というべき書類が出てきた。しかもこの書類の中には、今まで臥雲辰致に関して語られてこなかった驚くべき事実が書かれている。

2、「専売特許願草稿」発見の経緯

『臥雲辰致「ガラ紡」展示会のリフレット

ガラ紡展

(詳細は本文参照)

 2016年9月30日一か月間、長野県松本市中町・蔵シック館(松本中町蔵の会館)にて『臥雲辰致 「ガラ紡」展示会』 臥雲辰致・日本独創の技術者~「その遺伝子を受け継ぐ」~』が開催された。主催は「ガラ紡を学ぶ会」で代表者は名古屋在住の臥雲弘安氏(臥雲辰致の4男臥雲紫朗の子)である。この展示会では、ガラ紡機が動態展示されるとともに、臥雲辰致の発明品や、辰致の歴史的な資料が展示され、日替わりで、臥雲辰致やガラ紡機の研究者たち約10名の講演が行われた。筆者も時々この展示会を訪れ、研究者の発表に耳を傾けたが、ちょうどこの展示会が開催されている最中の2016年10月9日に、筆者は所属する「臥雲辰致に学び顕彰する会」主催の「臥雲辰致とガラ紡機」という講演を安曇野市堀金公民館で行った。講演の内容は、もともとこの公民館には資料館があり、そこにガラ紡機が展示されているので、そのガラ紡機の前でその特徴と動作を説明し場所を移って、講堂で臥雲辰致がガラ紡機の発明を行った背景などについて話をした。その時筆者は、武居家(筆者の家)に保管されている明治10年版の洋装の中村正直著「西国立志編」を提示し、臥雲辰致が、その本に大きく影響された可能性があることを強く示唆した。
それから数日後、『臥雲辰致 「ガラ紡」展示会』が終盤近くになった10月26日、筆者は松本市内に所用があり、その帰りに中町の展示場を訪れた。この時に臥雲弘安氏から臥雲辰致に関する、一通の文書の提示があった。この文書は「微臣臥雲辰致」から始まる漢語で書かれたもので、臥雲辰致から筑摩県権令永山盛輝に宛た、専売特許の請願書草稿であった。この文書は長野県安曇野市穂高柏原在住の中島寛行氏が所蔵するもので、氏は以前からこの文書の存在が気になっており、『臥雲辰致 「ガラ紡」展示会』が開催されていることを知り、途中からこの文書の展示を主催者にお願いしたとのことであった。中島家は明治の初めころ、臥雲辰致が住職であった孤峰院の本院安楽寺の檀家であり、その関係でこの文書があるのではないか、とのことであった。
以下にこの「専売特許願草稿」の全文を記載するとともに、筆者の概訳を示す。

3、「専売特許願草稿」の全文

「専売特許願草稿」

明治8年特許_01

明治8年特許_03

(中島寛行氏が所蔵)

「専売特許願草稿」解読
1 微臣臥雲辰致謹而(つつしんで)以(おもん)ミルニ皇運ノ興起スルヤ文化都(と)鄙(ひ)
2 ニ浴(あまね)ク億兆の精霊忽(たちま)チ膏澤ニ浴シ凱康ノ昭代ニ自
3 主ヲ保チ優渥ノ保界ニ自由ヲ安ンス孰(いずれ)カ此鴻慈(こうじ)
4 ヲ奉戴セサラン哉臣等固ヨリ蒙昧ノ愚民ト雖
5 モ屡(しばしば)欧米各国ノ説話ヲ聞キ独リ以為(おもえら)ク不敏トイエトモ
6 粉骨砕身思慮ヲ廻ラシ一事ヲ発明
7 シ人労ヲ略(はぶく)クノ器械ヲ造リ以テ國ノ開花ニ
8 應(こたえ)ント心ヲ竭(つく)シ精ヲ労シ月ヲ積ミ月ヲ重ネ
9漸(ようや)足袋底ニ用ユル所ノ太糸ヲ製スル機械ヲ
10 落成セリ此機凡(およそ)二十五貫目ヲ製スル器械ヲ
11 動カスノ水車ニ藉(か)ラハ一婦一日ニシテ綿三十抱ヲ製スヘシ
12 此測算ヲ以テ大ニ及ホサバ通常ノ水車ニシテ巨多
13 クノ綿糸ヲ製スヘシ抑(そもそも)太糸ノ製(つくる)ヤ多ク無能女ノ
14 業(わざ)ニシテ其撚賃僅カニ一抱一銭ニ満タス故ニ巧拙ニ関セス
15 徒ニ迅速ヲ欲シ自然意ヲ麤(そ)拙(せつ)ニ属スル故ニ諺
16 ニ無能業ト云フ宜(むべ)ナル哉コレヲ能クスルノ婦女果シテ
17 縫鍼紬績ノ年工ニ超エズ願クハ臣力紡糸機械戯
18 玩ノ具ニ似タリと雖モ尊覧ヲ請ヒ而后(てのち)普(あまねく)弘メ此流
19 弊ヲ洗除シ以テ報恩ニ供セント欲ス然(しかり)ト雖モ臣微力ニシテ造
20 営スル能ハズ依テ其ノ籌(ちゅう)謀(ぼう)ヲ佗(た)ヘ鬻(ひさ)クノ外ナシ庶幾(こいねが)ワクハ
21 期年ヲ限リ此機ヲ造リ過活セント欲スル者ヨリ必ス至
22 当ノ謝金ヲ請ケ以テ臣歳月ノ疲弊ヲ補ハン
13 事ヲ請フ誠恐誠惶頓首(とんしゅ)頓首
24
25 第九大区七小区
26          安曇郡烏川村岩原耕地
27  明治八年四月十日         臥雲辰致 印
28 筑摩県権令    永山盛輝 殿
「専売特許願草稿」概訳
忠実なる僕(しもべ)の臥雲辰致が謹んで考えるに、天皇の勢威により文化は国々に満ち、
万物精霊は急速に潤いをおび、確固たる繁栄の内に自主を保ち、憐み深い世の中に自由を安んじ、
この慈愛を受けない者がいるでしょうか。
私たちはもとよりつまらない者ですが、度々欧米各国の説話を聞き、独り考えるに、遅速と言え、
粉骨砕身で思考をめぐらせて一つのことを発明しました。すなわち人力を省く機械を作って
国の発展に応えようと歳月を重ね心を砕き、足袋の底に使用する太糸を紡ぐ機械を落成しました。
この機械はおよそ二十五貫目(94Kg)の重さで、これに水車につなぐと、
一人の作業婦人が一日三十抱への綿を紡ぐことが出来ます。
このように計算すると、普通の水車で私は大量の綿糸を作ることが出来ます。
太糸の生産の多くは技術力の低い婦女の仕事で、此の賃金は僅か二抱え一銭に満たないから
上手下手に関わらずいたずらに速く仕事をしようとして、粗い仕事になり諺に言う
「無能業」と言わざるを得ない状態になります。
これを上手に行う婦女子でも裁縫や紬などの熟練工の賃金を超えることは出来ません。
私の作った紡績機は玩具のように見えるけれど、ご覧いただいた後に普及させて、
旧習を払拭し以て国の恩に報いようと思うのですが、
私は微力なためこの計画を遂行するにあたり、他の人の力に頼らざるを得ません。
どうか期間を設定して、この機械を造って利益を得ようとする者に必ず謝礼金を払うようにお計らい頂き、
私の長年の苦労が報われるようにお願いしたい。
まことに恐れ多く、何度も頭を床に擦り付けてお願いします。

4、欧米の説話とは

 この書類でます注目すべきは、この「専売特許願草稿」が漢文で書かれていることであろう。平安時代以来日本の上流知識階級(公家・寺家、学者)は純正の漢文の読み書きができ、中流実務階級(武家、百姓町人の上層は、変体漢文を交えた「候文」を常用し、下層階級は無筆である。すなわち遠く平安時代から江戸時代まで、公式文章を男性が書く場合は漢文を使うという伝統が引き継がれていた。江戸末期から明治にかけて漢文・漢語の使用が、大きく増えたといわれる。これは主に西洋語を翻訳する際に、それまで日本語にない概念の語句を、漢語の形で訳したためと、考えられている。その際に使われた漢語は、中国語に源流を持つものの他に、日本製のものが多数存在した。幕末から明治にかけて、当時の進歩的な知識人は、西洋文明を理解するために、蘭語や英語を学ぶより漢語を学ぶことが多かったという。この臥雲辰致が、明治8年に筑摩県宛に提出したとされる「専売特許願草稿」は、漢文の知識を持った者により書かれた文書である。日本人はもともと、中国からもたらされた漢文に関する知意識を持ち合わせているので、読み書きの知識があれば、ある程度の漢語を読み下すことは可能であったが、官に提出する書類を書くには、それ相当な教育を受ける必要があり、江戸時代にそれが可能だったのは、武士階級か上層農民であった。誰がこの草稿を書いたのかは、後に解説するとして、先ずはこの草稿の内容を見ていこう。
「専売特許願草稿」を読んで最も驚愕するのは、以下の一文であろう。

4 ヲ奉戴セサラン哉臣等固ヨリ蒙昧ノ愚民ト雖
5 モ屡(しばしば)欧米各国ノ説話ヲ聞キ独リ以為(おもへら)ク不敏トイエトモ
6 粉骨砕身思慮ヲ廻ラシ一事ヲ発明
7 シ人労ヲ略(はぶく)クノ器械ヲ造リ以テ國ノ開花ニ
8 應(こたえ)ント心ヲ竭(つく)シ精ヲ労シ月ヲ積ミ月ヲ重ネ
9 暫ク足袋底ニ用ユル所ノ太糸ヲ製スル機械ヲ
10 落成セリ此機凡(およそ)二十五貫目ヲ製スル器械ヲ
臥雲辰致の様々な逸話から、辰致は”西洋嫌いで、西洋には学ばない”との認識が多い中、驚くことに辰致は西洋の説話を聞いて発奮し、ガラ紡機を世に出そうとした、と書いてある。すなわち、豊田佐吉などの明治時代の偉大な発明家と同様に、還俗した辰致は、西洋について学んだのである。それでは一体この文書に書かれている、辰致が学んだ説話とは、誰が書いた説話を指すのであろうか。
先ずは明治初めに活躍した2人の啓蒙家を紹介する。
福沢諭吉

(wikipedia より)
中村正直

中村正直

上の画像左の明治時代の啓蒙家で教育者の福沢諭吉は、特に有名である。万延元年(1860年)、諭吉は日米修好通商条約の批准交換のために使節団とともに咸臨丸で渡米する。その後文久2年(1862年)、文久遣欧使節団の翻訳方として渡欧し、その体験を基に、帰国後慶応2年(1866年)に『西洋事情』などの書物を出版し、それらが明治時代にベストセラーとなる。

現在、画像右の中村正直の名前を知る人は殆ど居ないが、明治4年、欧米人の成功談を集めた、サミュエル・スマイルズ著「自助論(Self-Help)」を「西国立志編」という名前で翻訳出版された本が、明治時代を通して100万部の大ベストセラーになった。実は臥雲辰致が明治8年に出した「専売特許願」の草稿の中にある『欧米の説話を聞き』という文の、『欧米の説話』とは中村正直(著)「西国立志編」を指すのであり、以下にその理由を述べる。

中村正直とは
中村 正直(なかむら まさなお、1832年6月24日(天保3年5月26日) – 1891年(明治24年)6月7日)は明治時代の日本の啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。通称・敬太郎、敬輔。号は敬宇。
江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。
教授時代の1870年(明治3年)11月9日に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳したのも彼である。
(Wikipediaより)

5、「専売特許願」の中の「西国立志編」

各種 西国立志編

西国立志編 西国立志編原書_01 西国立志編原書_02

中村正直などの江戸末期から明治初期の啓蒙活動は漢語を駆使し、⼈々の⽂明開化に積極的な影響を与えると同時に、おびただしい⽤語を考案した。中村正直は『Self Help』を訳すにあたり、欧米にあって日本にはなかった新し物や概念を表す語句を自ら作り出したのである。そしてそれら漢語の造語が、臥雲辰致の資料として残されている古文書の中に、散見される。その中で最も特徴的な語句は、「専売特許願草稿」の中の語句で、
17 縫鍼紬績ノ年工ニ超エズ願クハ巨力紡糸機械戯
18 玩ノ具ニ似タリと雖モ尊覧ヲ請ヒ而后(てのち)普(あまねく)弘メ此流
とある中の「戯玩ノ具」という語句である。この語句は明治4年7月新刻の「西国立志編」第二冊、「8、ワット蒸気機関を作る事」の章で『ワット幼年ノ時戯玩ノ具ヲ作ルコト巧ミナリケリ』と使われており、「戯玩」には、和本版には「もてあそび」とのルビがあり、明治10年出版の洋本版には「ぎがんのぐ」とのルビがある。
「専売特許願」の中で使われた語句で、中村正直が「西国立志編」で使用したと思われる語句を参考のため列挙しておく。
1、「心ヲ竭(つく)シ精ヲ労シ」 —「リチャード・アークライトならびに紡綿機」。
2、「機械ヲ落成セリ」     — 「西国立志編」では機械を作り上げることを「落成」としばしば記載されている。
3、「戯玩ノ具」        — 「ワット、蒸気機器を作るのこと」
4、「此機ヲ造リ過活セント」  — 「ジョン・ヒースコートならびに線帯織機」
このように「専売特許願」の中には中村正直が「西国立志編」を訳すの当たり新たに造語した言葉がいくつか書かれており、「専売特許願」の中の『屡(しばしば)欧米各国ノ説話ヲ聞キ独リ以(おもへ)為(ら)ク不敏トイエトモ』の『欧米各国の説話を聞き』とは中村正直(著)「西国立志編」を指すことは明らかである。すなわち臥雲辰致は明治4年に刊行された「西国立志編」に触発され発明に励んだのである。

6、辰致発明品と「西国立志編」の関係

 驚いたことに、辰致が生涯において発明したとされる機械は、ことごとく「西国立志編」に出てくる。それも「西国立志編 第二編 新機器を発明創造する人を論ず」と銘打った13章ある中の一つの章に集中している。辰致が生涯に発明したといわれる機械を列挙すると以下のごとくになる。
辰致が発明したとされる機械または器具
1、水車を動力とした紡績機械
2、水車を動力とした織機
3、測量機
4、計算機
5、捩(もじ)り編み機
臥雲辰致が最も影響を受けた発明家は、水機と呼ばれる水車を動力とした紡績機を発明したとされる、リチャード・アークライトであり、「西国立志編 第二編 十 リチャード・アークライト、ならびに紡麵機」に次のように書かれている。
リチャード・アークライト
(「西国立志編 第二編 十 リチャード・アークライト、ならびに紡麵機」より)

1769年ついに免状を得て、その機器の利を己に保護せらる。すなわちワットの蒸気機器の免状を得たる年なり。奇なるかな、はじめてノッティンガムに棉麿(コットンミル)を造り、馬力を持ってひかしめたり。その後、ダービーシャーに建てたるものは、その規制さらに大にして、水車をもって運転せしめり、このゆえに紡棉機器を水機と呼べり。

リチャード・アークライトに倣って、臥雲辰致も明治8年に「専売特許願」を出し、烏川村から波多村へ移住し、後に辰致の妻となる川澄たけの実家の水車を動力として、紡績機と織機を動かすのである。すなわち100年前のイギリスのリチャード・アークライトの説話を聞き、波多村または松本にコットンミルを造ろうとしたのであろう。このように考えると、明治8年の「専売特許願」は、臥雲辰致が日本のアークライトになろうとした第一歩と考えられる。このほか臥雲辰致は数多いヨーロッパ産業革命発明家の中で、最も著名な、ジェームス・ワットからも大きな影響を受けている。
「西国立志編」「第二編 八 ワット蒸気機器をつくること」の中に『家人を養うために、象限儀(測量機)を造りこれを売り、…』との記述があるが、臥雲辰致の「履歴書」の中にも次の記述がある。
27 同六年地租改正ニ付實地調査ノ際測量
28 器ヲ作り望人ノニ應セリ….
臥雲辰致発明 計算機の試作機

計算機

(ガラ紡展にて筆者撮影)

これらは明らかに、ジェームス・ワットの説話を参考にしたものである。そのほか辰致は日本初となる計算機の試作を行い、その試作品が現在残っているが、これもジェームス・ワットの『算術の器を作りて、家業となしたる時…』という説話を基にしている。さらに辰致は晩年「捩り編み機」なるものを発明しているが、これは「ジョン・ヒースコート、ならびにレース織機」の逸話を参考にしている。すなわち、辰致の発明品を見ると、彼がいかに「西国立志編」に出てくる産業革命時代の発明家の説話に、触発されたのか理解できる。

7、臥雲辰致の資料の中に出てくる西国立志編の単語

明治4年刊行の「西国立志編」の注目すべき個所を掲載する。
「西国立志編」

sg1_01
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(明治4年発行 中村正直著)

8、中村正直は『science』⇒『科学』が翻訳できなかった。

(2019/10/17 加筆)

Self Help English Edition

(Amazon Services International, Inc. より)

・原文と翻訳との違い
サミュエル・スマイルズはその著書Self Helpの中でジェームス・ワットについて次のように記述している。
『Even when a boy,Watt found science in his toys.』
直訳すると、”子供の時でさえ、ワットは彼のおもちゃの中に科学を見出した”となる。これを中村正直は、
『ワット、幼年の時戯玩の具を作ることに巧なりけり』
と訳している。これはどう見ても誤訳である。すなわち原文にある”science”という語句が訳されていない。おそらく明治4年頃には、science(科学)という概念が日本にはなかったと思われる。サミュエル・スマイルズのこの一文は、中村正直には次のように見えていた。
”Even when a boy,Watt found ??? in his toys.”(???は不明な単語)
そこで彼は、この一文を次のように解釈したのだろう。
”Even when a boy, Watt was good at making toys.”

・”戯玩の具”から”玩具”へ
中村正直は『toy』を”戯玩の具”と訳している。初版本の”戯玩”には”もてあそび”というルビがふったあったが、やがてこれは”ぎがん”に替わっている。
”おもちゃ”のことを”玩具”と書くようになったのは、中村正直が「西国立志編」を書いた後であると推測される。Wikipediaによると『玩具(がんぐ、おもちゃ)は、遊びに用いる対象物・道具のことであり、遊び道具とも呼称される。おもちゃの語源は平安時代の「手に持って遊ぶ」行為である「もて(もち)あそぶもの」であり、これが室町時代に省略と接頭語の添付を経て生まれた。』となっている。

・”戯玩の具”は武居正彦が書いた文書のスタンプである
臥雲辰致の”履歴書”の中にも”戯玩の具”という語句が出てくる、これはこの文書の原文を武居正彦が書いた証拠であると筆者は考えている。

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[1] [専売略規則] 開国により欧米の特許制度が紹介され、明治4年(1871年)我が国最初の特許法である専売略規則が公布されました。しかしながら、当時の国民は特許制度を理解し利用するに至らず、当局においても運用上の問題が生じたため、、明治5年に太政官布告第105号というもので、「新発明品専売免許当分廃⽌(明治5年3⽉29⽇)」となった。しかしながら、この中で、「但向後諸物品新発明致シ候者有之候ハヽ其管轄地⽅官ニテ発明品及其⼯夫ノ⼿続等詳細取調書ヲ以テ⼯部省ヘ可届出事」とされた。