1、正彦との運命的な出会い
松本市波田 阿弥陀堂

(筆者撮影)
『2章「自筆履歴書草稿」の謎』で記したように、臥雲辰致が最初のガラ紡機を発明したのは還俗した年の明治4年である。そしてその後、ともにガラ紡機を世に出そうとした
[1]、武居正彦との運命的な出会いがあった。辰致が還俗の折にその後の身の振り方を相談した岩原村の山口家と、辰致の支援者となる波多村の武居家は、深い姻戚関係がある。当時大庄屋庫吾の嗣子山口吉人と武居正彦の母は兄弟である。すなわち吉人は正彦の叔父にあたる。辰致と正彦の出会いを、私は以下のように想像する。
明治5年頃
[2]、岩原村の叔父を訪れた正彦は、中村正直の著「西国立志編」に興味を持っていることを叔父に話した。そして叔父から、山口家からそう遠くない山の中腹にある廃寺
[3]で、紡績機の実験に取り組んでいる僧上がりの変わった農民がいることを聞くのである。興味を持った正彦は、さっそくその僧上がりの農民を訪ねることになる。そして山の中腹の暗い廃寺の中に見たものは、読んだばかりの「西国立志編」に出てくるリチャード・アークライト
[4]であった。正彦の驚愕が目に浮かぶ。二人はすぐに意気投合し、正彦は辰致に、「西国立志編」に出てくる、ジェームス・ワット
[5]やリチャード・アークライトの説話を語る。辰致は「西国立志編」をヒントに水車を動力とした紡績機や織機、測量機などを考案するのである。
明治4年に刊行された「西国立志編」は全部で13編まであり、その中で辰致関連の文書の中で引用される漢語の語句は、第2編の「新機器を発明創造する人を論ず」の中に集中しており、また辰致が考案した機械も、測量機、紡績機、計算機、捩り編み機などこの2編に中で語られている機械に集中している。しかし、「西国立志編」に語られているといっても、この本はあくまでも偉人たちの説話であり、この中で語られる機械はいずれもその構造に関しては一切触れられていない。驚くべきことに辰致は、機械の名前を聞いただけで、それをヒントにして新しい機械を考案しているのである。
2、辰致はなぜ波多村に移住したのか
「履歴書」に辰致は、明治8年「専売特許願」を提出した年に岩原村から波多村に移住したとある。ただし移住した理由は何も書かれていない。
中村精著「日本ガラ紡史話」、榊原金之助著「ガラ紡業の始祖臥雲辰致翁伝記」、村瀬正章著「臥雲辰致」などの伝記本にも、辰致がなぜ波多村に移住したのか全く書かれていない。宮下一男著「臥雲辰致」には次の記述がある。
波多村の豪農で大地主であった川澄藤左は自分の家の田畑や山林を測量するため、辰致の評判を聞いて呼び寄せ、五百五十二番地の川澄家に逗留させようとしていた。(中略)辰致は波多村の川澄家に逗留している間に、同村の武居美佐雄や波多腰六左、青木橘次郎らと知り合い、綿紡績機の実用化と、その販売を計画して連綿社を設立し、波多村から松本の女鳥羽川沿いに在った開産社に移ることになるのである。
(宮下一男著 「臥雲辰致」76~77p)
北野進 著 「臥雲辰致とガラ紡機」には次の記述がある。
臥雲辰致はその年(明治8年)、東筑摩郡波多村へ居を移した。(中略)豪農で大地主の川澄家が田畑や山林の測量を臥雲辰致に依頼したのが最初の関係だと言われている。(中略)発明の為の資金もなく川澄家の邸隅に居住していたが、見込まれたのか、後の明治十一年、長女・川澄たけと結婚した。
(「臥雲辰致とガラ紡機」87~88p)
この2冊の伝記書は、辰致は川澄家の田畑や山林を測量するために、烏川から波多村に来たとしている。しかしながら、これがどのような資料を根拠にして書かれたかは明らかにしていない。おそらく宮下一男氏が川澄家に取材したときに出た話であり、さらに北野進氏の記述は宮下氏の本を参考にしたものであろう。しかしこの話は不思議な点がいくつもある。確かに当時、川澄家は土地持ちで在ったと思われるが、ほとんどが畑地であり、10km程離れた岩原村から辰致を呼んで、測量をするなどという必要が在ったのだろうか。岩原村から波多村の間には広い田園が広がっていたはずで、それを飛び越えて、波多村に来たという理由が見つからない。更に、波多村に測量に来た時に、「波多村の武居美佐雄や波多腰六左と知り合い」とあるが、武居美佐雄は当時波多村の戸長であり、波多腰六左は副戸長である。当時の戸長や副戸長が、よその村から来たものと懇意になるはずもなく、ましてや、岩原村の戸長や波多村の戸長の許可なしに、他の村の者が居住出来ることはない。更に、北野進の「発明の為の資金もなく川澄家の邸隅に居住していたが」という記述は、榊原金之助 著「臥雲辰致翁伝記」の中の以下の記述を基にしている。
辰致は其の年(明治8年)東筑摩郡波多村上波田に居を移し川澄東左エ門の女たけを娶って妻とした。当時の生活状態は、長い間の苦心によって漸く紡機を発明したものの資力つきて独力機械の製造販売をなすことが出来ず、川澄東左エ門の邸隅に小住宅を営んで僅かに居るといった有様であったが…
(「臥雲辰致翁伝記」4p)
更に村瀬正章 著 「臥雲辰致」にも以下の記述がある。
辰致はその年筑摩郡波多村に居を移し、当時十六歳であった弟納次郎を養子にした。当時の辰致の生活は、長い間の苦心によって、ようやく紡機を発明したものの、資力が尽きて、独力で器械の製造販売をすることが出来ない有様であった。
(「臥雲辰致」23p)
辰致が明治8年から明治9年にかけて、貧困の為波多村上波田の川澄家の邸隅にひっそり住んでいたという伝記作家たちの記述は榊原金之助の「臥雲辰致翁伝記」を参考にしたものであるが、このことはこれから詳しく説明するが、明治8年から9年にかけては辰致の生涯でも最も忙しい時期であり、「邸隅に小住宅を営んで僅かに居る」などということはあり得ない。臥雲辰致に関する史実の間違った継承が次々に起こり、真実が歪められた典型的な例であろう。もともと辰致は還俗した時に、岩原村の孤峰院下に4反歩あまりの畑地[6]をもらっているので、辰致と妻のくま、養子の弟納次郎が何とか食べていける資産は持っていた。とはいっても当然のこととして、ガラ紡機の本格的な試作機を製造する資金などなく、その資金は支援者または有志から提供を受けていたのである。
3、水と水車を求めて
しかしながら筆者にも、なぜ辰致が波多村に移住したのかその理由がわからなかった。その理由に気が付いたのは、偶然筆者が波田歴史愛好会のメンバーとして川澄家の付近の「阿弥陀堂」[7]を探索した時である。「阿弥陀堂」の前には、道があり、その道の下の方から水が流れる音がする。波田歴史愛好会のメンバーの一人に「この水音は何ですか?」と尋ねると、この音は「男女沢(おめざわ)」の音だという。そこまで聞いて、私ははたと気が付いたのである。「西国立志編」のアークライトが水車を求めて、ダービーシャーに移ったように、辰致もこれに倣い、水と水車を求めて波多村に来たのである。
4、信飛新聞の記事[8]
明治九年二月二十九日火曜日付の「信飛新聞」の記事が以下のように伝えている。
四大区波多村ニ於テ、木綿製糸器械並ニ、製布器械新発明ガ出来、経撿(タメシ)ノ上器械場築造ニ取掛タサウデ五座リ升。
其器械ハ、水車ニ仕カケ差向一日ニ、日本綿百把ヲ絲ニシ、布ハ三十反ヲ織ルサウテス。
追々増築シテ盛大ニスル、迚有志者協力勉強シテ居ルサウテ有、升當今ニ取テハ器械ヲ造テ、人労(ヒトデ)ヲ省キ、物産ヲ開テ、国益ヲ興(オコ)スガ国家富饒ノ最モ急務デ有マス。
ソレニ引替、無智無学者(タアケモノ)ガ陰(カゲ)デ、鏨空師(ヤマシ)ダ何ノト悪口ヲ叩(タタ)ク者ガ、有サウテスガ其様ナ奴(ヤツ)ニ限テ、糞造器機(クソバカリタレフ) ノ無用物(ヤクニタタズ)デ有マス。
波多ノ諸君ヨ何デモ奮發(フンパツ)メ、一日 モ疾(ハヤ)ク落成(デキアガリ)ノ程ヲ待チマス 。
驚いたことに、臥雲辰致は明治8年に岩原村から波多村に移住し、次の年の2月には早くもガラ紡機と綿布の機械織機を波多村の水車で実験稼働させている。現在でも難しと思われるこのスピードは、十分に計画されたものでないと実現は不可能である。辰致は資金が尽き寓居していたとの、逸話がいかに間違ったものであるか、良くわかる記事である。
5、「専売特許願」、「波多村移住」は計画的であった
今まで述べてきたように、辰致の波多村への移住や、その前の「専売特許願」提出は全て計画されたことであった。そればかりか、それまで内縁関係であった妻のくまを入籍し、弟の納次郎を正式に辰致の子として養子にし、辰致が波多村に移動した後も、畑などが荒れないように手当したものであろう。辰致の畑は山の中腹にあり、1年も放置すれば、元の山の荒れ地に戻ってしまう。そしてこれらの事は全て、岩原村の戸長山口家の許しのもと、更に波多村の戸長武居美佐雄(正彦の父)との話し合いの結果行われたものであろう。
6、川澄家逗留「証」の謎
川澄家逗留「証」

安曇野市教育委員会所蔵品
上記「証」と書かれた文書は、2016年9月30日~10月30日に松本市で開かれた「ガラ紡展示会」に展示されたものを筆者が写真撮影したものである。この展示文書には以下のコメントが付いていた、『川澄東左方へ逗留している事を証明する烏川戸長山口庫吾宛証明書』。
2018年の12月に、このホームページの記事を全てコピーして、松本市在住の上條宏之先生[9]にお送りし、読んで頂きました。その返信の中で先生が次のように読み解き、解説をつけてくださいました。
証
第四大区三小区
筑摩郡波多村
五百五十二番地壱
川澄藤左方逗留
右之通り宜敷御認メ
御差上被下候也(おさしあげくだされそうろうなり)
二月十七日
波多腰六佐 印
『この資料は、臥雲が既に波多村川澄藤左さんのところに逗留しているので、波多村副戸長の波多腰六左が、烏川村の山口庫吾に逗留の手続きを、案文(最初の四行)の通り、波多村戸長のお武居美佐雄宛にして欲しいという依頼文でしょう。当時、臥雲は川澄家に逗留し、波多腰六左・武居美佐雄などの人びとと、既に発明にかかわる取り組みをしていたことを示す資料です。』
7、辰致測量の為に波多村逗留説
辰致が川澄家の田畑の測量の為に、波多村に逗留したとの説を書き始めたのは、「臥雲辰致」の著者の宮下一男氏である。氏は昭和61年に川澄家、武居家に取材しその中で、辰致測量説の確証を得られたのであろうが、当時はまだ波多村側の研究が進んでいなかったと思われる。筆者が平成28年に、宮下氏と久しく歓談した中で、岩原村の山口家と波多村の武居家に姻戚関係があったと、知らなかったことが判明した。これはたまたま宮下氏が我が家を訪問した時に父が不在であったためであり、この時父が居れば、宮下氏著「臥雲辰致」の波多移住の記述内容は違ったと思われる。
なお、「臥雲辰致とガラ紡機」の著者北野進氏も辰致測量説をとっていたが、2018年に私が書いたものを基に、「臥雲辰致とガラ紡機」の増補版を出されて、その中で臥雲辰致と武居正彦との関係を書かれている。
8、波多村の協力者たち
明治7年波多村合併の書

(武居家所蔵)
波多村戸長

(東筑摩郡郡誌より)
上の写真は、明治9年5月の波多村の戸長及び副戸長である。波多村在住で辰致発明品のガラ紡機及び織機を使った事業の協力者は、1番左の戸長武居美佐雄と左から2番目の波多腰六左である。
■武居美佐雄
武居美佐雄

(武居家所蔵)
武居美佐雄は正彦の父であり、美佐雄の妻は大庄屋山口家跡取りの山口吉人と兄妹である。辰致の波多村移住は吉人と正彦の要請により美佐雄が動いたと思われる。当時の戸長は村議会の議長も務めており、さらに美佐雄は穂高神社の「神風校社」副社長などをしていて多忙であったはずで、そのため事業は副戸長で親交があった、波多腰六左に依頼したのであろう。川澄家の水車を使用することは、おそらく波多腰六左の提案であり、波多腰六左と川澄東左(藤左)は波田堰の開発を通して親交があったものと思われる。その後この事業は波多腰六左が主導し、官との交渉は武居美佐雄が、辰致の生活の補助は川澄東左が請け負ったのであろう。
■波多腰六左
波多腰六左

波多腰六左 (波多腰家所蔵)
上の合併の書にあるように、波多村は明治7年に、上波多村、下波多村、三溝村が合併し波多村となった。波田町誌に次の記述がある。
明治八年、地租改正が行われた当時、下波多の水田は、耕地のわずか四%にすぎなかった。上波多が二十八パーセント、三溝が六十八パーセントである。
ちなみに、川澄東左宅は上波多、波多腰六左宅は下波多、武居美佐雄宅は三溝にあった。
波多村は河岸段丘が幾層も重なており、上波多、下波多は梓川河岸段丘の上方に位置し、三溝村は最下段に位置している。このような事情の為、波多腰家は代々梓川上流から取水する堰を敷く計画を立てるが、この地区には同じ梓川を水源に持つ和田堰などがあり、更に和田堰は天領和田に水を供給している為に、幕府との問題を避けようとする、松本藩は及び腰であった。このような状況の中波多腰六左は、明治2年、下波多村の庄屋であった百瀬精一郎とともに、洪水によって流失した田の分の水を「換水」するという手法で新堰を造る許可を藩に願い出た。このような経緯をへて、明治4年に、松本藩がみずから工事に着手したが、半年をへずして廃藩置県となり、堰工事は筑摩県が担当することになった。しかし筑摩県の工事は遅々として進まず、やがてそれまで県営の新堰として工事していたものを、無償で上波多村と下波多村に払い下げられた。この時に、下原新堰の名称を波田堰に変え、続きの工事に金を出すものがないので、波多腰六左が金を出し、完成後には灌漑した田の持ち主が水代を出す約束で工事が進められた。
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[1] 臥雲辰致、武居正彦、甲村滝三郎は明治22年9月13日付で、「綿紡績機」に特許、第752号を取得している。
[2] 辰致、正彦出会いの年を特定できる資料は無い。出会いは「履歴書」より、辰致の還俗した明治4年から、測量機を発明した明治6年の間であると推測できる。
[3] 還俗した辰致は、住職であった孤峰院あとの廃寺に住むことを許可され、そこで再びガラ紡機の開発に取り組む。
[4]「西国立志編」-「第2編 新機器を発明する人を論ず」-「十 リチャード・アークライトならびに紡棉機」
[5]「西国立志編」-「第2編 新機器を発明する人を論ず」-「八 ワット、スチームエンジンを作ること」
[6]宮下一男 著 「臥雲辰致」62P
[7] 元禄4年(1691)に西光寺が廃寺となった際に、地元の人たちの手によりここに移され、以後仁王門は若澤寺の山門になった。
[8] 「信飛新聞」明治5年(のち「松本新聞」)、久保田畔夫、市川量造の2名の発意で創刊。昭和45年に信州大学教授有賀義人を代表として復刻版を発行する。
[9]上條宏之(かみじょう ひろゆき、1936年)は、野県松本市に生まれ、東京教育大学文学部史学科を卒業後、長野県県政史編纂室、長野県短期大学助教授、信州大学教授を経て、長野県短期大学(2018年4月 長野県立大学(4年制大学)へ移行)学長。2018年春の叙勲で瑞宝中綬章を受章。