1、開産社側の準備
臥雲辰致と有志3人が、波多村の川澄家水車場から、紡績、織物工場を松本開産社内に移設したのは、明治9年の5月である。倉澤家の資料によると、これに先立って明治8年12月8日に橋爪多門と中田貢が、最初の開産社常詰社長に就任し、明治9年2月8日女工場用の家屋敷修繕、2月24日展覧場用に家屋敷修繕、3月5日織工教師雇入れに着手、4月7日植物園整備、4月28日展覧会場のため書記2名小使1名臨時雇用、4月29日織場資本金半年分2,563円20銭予算化、5月17日人力車25輌購入再要請と、矢継ぎ早に開産社の事業拡大、推進を行う。同じ時期にガラ紡機と機械織機が、信飛新聞などに取り上げられたことにより、開産社側がそれらの機械に着目し、開産社内での動態展示を、急遽検討し始めたのではないかと考えられる。
2、ガラ紡機普及と協力者達の葛藤
波多村から松本移動の約一年後、明治10年8月に、東京上野の第一回内国勧業博覧会が開催され、ガラ紡機が出品される。博覧会にガラ紡機を出品することは、辰致と協力者にとっては、明らかに予定外の行動であったはずで、これにより開産社内に移って間もない辰致と有志の綿紡績、綿織物工場設立計画は、大きく狂うことになる。
本稿の中で何度も書くが、臥雲辰致を中心として計画された綿紡績、綿織物工場設立計画は、設立段階では明らかに、水車を動力にしたガラ紡機による紡績業と、同じく水車動力による機械織物業を行い、それにより利益を上げるとともに、開産社と協力して松本地方の主要産業を形成しようとしたものである。
このような辰致と協力者の思惑に反して、ガラ紡機の新聞報道、開産社内のガラ紡機、機械織機の動態展示、ひいては第一回内国勧業博覧会における最高賞の鳳紋賞牌受賞などにより、ガラ紡機は一躍有名となり、ガラ紡機を使用して紡績業を始めたり拡大したい人が多数現れることになる。皮肉な言い方をすれば、臥雲辰致の協力者たちは、自らの資金を投入して、いわゆるコンペジター(商売敵)を育ててしまったことになる。
はるか100年以上も前の、イギリス産業革命時に活躍した先人たちも、同じような葛藤に悩んだ。ジェニー紡績機を発明したジェームス・ハーグリーブスは、効率的な機械紡績機を発明するも、それを世間に隠し、自らの工場で紡績を行っていたが、その生産性の高さゆえ、綿糸の価格が暴落し、同業者の怒りを買って他の地に逃れざるを得なかった。しかし、ハーグリーブスと辰致の違いは、辰致は自ら発明した機械が世の中に広まることを望み、積極的にそれに協力したのである。また辰致以外の協力者のメンバーもまた、工場経営に対して一枚岩とは言えず、工場の経営を一手に引き受けることになった波多腰六左は、頓挫寸前の計画を、どうにか立て直そうと奔走する。
本稿の中で何度も書くが、臥雲辰致を中心として計画された綿紡績、綿織物工場設立計画は、設立段階では明らかに、水車を動力にしたガラ紡機による紡績業と、同じく水車動力による機械織物業を行い、それにより利益を上げるとともに、開産社と協力して松本地方の主要産業を形成しようとしたものである。
このような辰致と協力者の思惑に反して、ガラ紡機の新聞報道、開産社内のガラ紡機、機械織機の動態展示、ひいては第一回内国勧業博覧会における最高賞の鳳紋賞牌受賞などにより、ガラ紡機は一躍有名となり、ガラ紡機を使用して紡績業を始めたり拡大したい人が多数現れることになる。皮肉な言い方をすれば、臥雲辰致の協力者たちは、自らの資金を投入して、いわゆるコンペジター(商売敵)を育ててしまったことになる。
はるか100年以上も前の、イギリス産業革命時に活躍した先人たちも、同じような葛藤に悩んだ。ジェニー紡績機を発明したジェームス・ハーグリーブスは、効率的な機械紡績機を発明するも、それを世間に隠し、自らの工場で紡績を行っていたが、その生産性の高さゆえ、綿糸の価格が暴落し、同業者の怒りを買って他の地に逃れざるを得なかった。しかし、ハーグリーブスと辰致の違いは、辰致は自ら発明した機械が世の中に広まることを望み、積極的にそれに協力したのである。また辰致以外の協力者のメンバーもまた、工場経営に対して一枚岩とは言えず、工場の経営を一手に引き受けることになった波多腰六左は、頓挫寸前の計画を、どうにか立て直そうと奔走する。
3、「連綿社条約書」とは
「連綿社条約書」(以下「条約書」)は明治10年9月9日の日付で発行されている。第一回内国勧業博覧会が開催されたのは、同年8月21日であるから、この博覧会の会場でガラ紡機が、大きな話題になっているという一報が届いた後に書かれたものであろう。すなわち辰致と有志が自らの工場を開産社内に設立したのが、1年前の5月であるから、この辰致と協力者との組織を、「連綿社」と名付けるまでに1年以上の時間が必要だったことになる。時代は明治の初期であり、辰致と協力者が開産社内で工場を経営するために、しっかりとした会社組織が必要だったわけではないと思われる。しかし、会社の支社または分社化を行う上では、しっかりした会社組織の構築が急務であったのであろう。
■「条約書」は誰が書いたのか
中村正直著 「西国立志編」は次の著名なフレーズから始まる。
第一篇 邦国及び人民のみずから助くることを論ず
一 みずから助くるの精神
「天はみずから助くるものを助く」といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずか一句の中に、あまねく人事成敗を包蔵せり。」
一 みずから助くるの精神
「天はみずから助くるものを助く」といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずか一句の中に、あまねく人事成敗を包蔵せり。」
一方、「条約書」は次の文言で始まる。
発明の事物はもとより有形の物を製造する者なれば、初めより確然不動の目撃見据難し。然し而して今に於いて同心協力し共に永遠の幸福を謀り、且つ以て国益の一端をなさんと欲す。すなわち真に有志の集会と謂うべし。然れば以後は会社の成敗は勿論一己一人上に付き…
この2つの文章を比較してみると、「条約書」は「西国立志編」の中に使われている、『確然』、『成敗』等という語句を用いており、「条約書」は明らかに、「西国立志編」を読んだか勉強したものが書いたものといえる。又この「条約書」の筆跡からもこの文書は、武居正彦が書いたものに間違いないと筆者は断ずる。しかし書かれている内容は、後に連綿社の頭取となる、波多腰六左が指示したものであり、正彦は六左を中心とした、連綿社の構成メンバーの意向を文章にしたものであろう。
■「条約書」は辰致を連綿社に引き留めようとしている
臥雲辰致の連綿社における役割は、機械を設備し、整備して紡績および織物業が円滑に運営されるようにすることであった。今でいうと、工場の生産技術職といったところであろうか。そしてその仕事に対して連綿社から給与が支払われ、辰致はその給与によって生計を立てていくというのが、最初の計画であった。しかし、ガラ紡機の販売が始まり、連綿社以外からの収入が増えるに従って、辰致はガラ紡機の販路を広げようとして、連綿社の仕事に手が回らなくなったのだろう。辰致の協力者たちは、ガラ紡機の販売が好調なのは、臥雲辰致の発明の手腕はあるも、自分たちの出資による側面からの協力があったことが大きいと主張し、連綿社に対して辰致の出資を促し、辰致をどうにかして連綿社に引き留めようとしているように思える。さらに連綿社の支社を他の県に出すことにより、そこからの利益還元を得て、連綿社の経営の多角化を目論んだのであろう。しかしながら、綿花の栽培がほとんどない松本地方で、原綿を他の地方から購入して、女鳥羽川のわずかな水を利用した水車で、大規模な紡績工場を営むことは最初から無理があった。また辰致は生まれながらの発明家であり、会社の一ポストに収まったり、経営者として手腕を発揮するタイプの人間ではなかった。
■連綿社崩壊の兆し
「条約書 第一条」の中の『個人個人の上に何らかの事情が生じようとも、それを会社に及ぼすことなく、規則を守り、諸問題が発生した時は衆議討論を行い、間違った方向に進まず倹約を励行し、誠実に落ち着いて、他人と協力和睦をむねとし、常に変わることなく、皆が会社の発展を望むよう』
すなわちこの文言から次に示すような、当時の連綿社の問題が読み取れる。
1、個人の問題が連綿社の運営の足かせとなっている。
2、連綿社の問題が、有志の間で共有化で出来ていない。
3、問題が発生した時の対応が、一時的な対応であり、将来を見据えた対応ではない。
4、社員(有志)の間に不和が生じている。
という問題が連綿社の中で起こっているということなのである。しかしこれらの問題をよく見ると、いずれも現代の会社が抱えている問題と同じであり、会社組織というものが本来的に内蔵する基本的な問題といえる。ただし、この中には連綿社特有の構成員から起因する問題もあると思われるので、そのへんを記述しておく。
連綿社の構成員は、臥雲辰致、武居美佐雄、波多腰六左、青木橘次郎である。この中で武居美佐雄は戸長などで多忙であるため、非常勤である。なぜならばこの後明治12年1月に書かれた「連綿社社則」の中では、武居美佐雄は息子の正彦に代わっており、しかも正彦は非常勤になっている。また青木橘次郎は出資はしたが、連綿社の経営にはほとんど参加していないと思われる。明治12年1月に出された「連綿社社則」の中に青木橘次郎の名前はなく、連綿社への出資から退いたと思われる。
すなわちこの文言から次に示すような、当時の連綿社の問題が読み取れる。
1、個人の問題が連綿社の運営の足かせとなっている。
2、連綿社の問題が、有志の間で共有化で出来ていない。
3、問題が発生した時の対応が、一時的な対応であり、将来を見据えた対応ではない。
4、社員(有志)の間に不和が生じている。
という問題が連綿社の中で起こっているということなのである。しかしこれらの問題をよく見ると、いずれも現代の会社が抱えている問題と同じであり、会社組織というものが本来的に内蔵する基本的な問題といえる。ただし、この中には連綿社特有の構成員から起因する問題もあると思われるので、そのへんを記述しておく。
連綿社の構成員は、臥雲辰致、武居美佐雄、波多腰六左、青木橘次郎である。この中で武居美佐雄は戸長などで多忙であるため、非常勤である。なぜならばこの後明治12年1月に書かれた「連綿社社則」の中では、武居美佐雄は息子の正彦に代わっており、しかも正彦は非常勤になっている。また青木橘次郎は出資はしたが、連綿社の経営にはほとんど参加していないと思われる。明治12年1月に出された「連綿社社則」の中に青木橘次郎の名前はなく、連綿社への出資から退いたと思われる。
■履歴書の中で連綿社はなぜガラ紡機製作業と書かれたのか
「履歴書」の中に、『五月、三四の有志と協力し大いに機械を製造せんことを謀り、居を松本に移し、連綿社と名づくる一社を設立し専ら機械製造に従事せり』とある。しかし「条約書」を読む限り、また信飛新聞の記事や開産社内の状況を読む限り、連綿社は明らかに綿花から綿布を作ることを目的にして設立されたものである。それではなぜ「履歴書」の中でそれが機械製造に置き換わってしまったのか。そのことに関して『第2章 「自筆履歴書草稿」の謎』で記したが、開産社の中に作られた、製糸や紡績から綿布や絹布をつくり、染物まで行うというプロジェクトは、明治13年に開産社の社長北原稲雄が引退する頃には、規模が縮小され、連綿社も明治13年12月には解散されて、以後臥雲商会として明治18年まで継続する。この開産社内の綿糸、絹糸、織物、染物等のいわゆる織物業のプロジェクトの頓挫を、明治政府に提出する履歴書に、明記することに官として好ましくないと判断して、臥雲辰致側から出された履歴書の修正を求めたのではないかと、筆者は想像する。そう考えると、「臥雲辰致自筆の履歴書」と呼ばれるものの署名が臥雲辰蔵と間違っていたり、履歴書が東筑摩郡役所と印刷された罫紙に書かれている理由がわかる。しかしこれはあくまでも筆者の推測であることをことわっておく。
■連綿社の計画進まず
「条約書」第二条はいきなり連綿社が行わなければならない緊急の業務に関して書かれている。この条約書を読んだ人は、ここにきて、第一条の連綿社設立の趣旨とのギャップに戸惑うことになる。すなわち、連綿社にとって、5台の太糸機械の稼働が急務であると書かれている。このことは、波多村から松本に移動して一年以上経過するにも関わらず、まだガラ紡機が十分稼働していないことが暗に読み取れる。しからばなぜ計画が遅延したのだろうか。第一の理由は、ガラ紡機を、第一回内国勧業博覧会に出品したからである。このために、臥雲辰致は、太糸ガラ紡機を細糸ガラ紡機に改造し、博覧会展示用の機械を製造し、展示場に行き分解されたガラ紡機を再度組み立て、稼働させるなど、多忙を極めたためと考えられる。この間連綿社は波多村から持ってきたガラ紡機の他に、さらに4台の太糸ガラ紡機を製作していたのであるが、最終的にそれらの機械が未稼働の状態であったのだろう。
しかしそれだけでなく臥雲辰致を多忙にした理由があり、それは先に書いたように、ガラ紡機が売れ始めたことである。そしてガラ紡機の販売は、連綿社が行うのではなく、臥雲辰致が個人的に行っていたと考えられる。そもそも、ガラ紡機は臥雲辰致が独力で開発したものであり、販売権はひとり辰致にあった。少なくとも連綿社設立当初は、それでよく、そのような理解のもとに連綿社が設立された。しかし、ガラ紡機が広く認識されるようになるまでに、内国博覧会出品等に大量の資金が投入されるに至り、ガラ紡機が販売されても、連綿社はその利益に浴せず、ガラ紡機が売れれば売れるほど、辰致が多忙となり、連綿社内の作業が遅延し連綿社の経営を圧迫した。ここに至って連綿社は急速に経営の立て直しを迫られ、ガラ紡機の発明者である臥雲辰致とその支援者という立場を明確にし、両社の一致団結を謀って、利益確保が可能な組織に作り替えるためにこの条約書を作ったと考えられる。
しかしそれだけでなく臥雲辰致を多忙にした理由があり、それは先に書いたように、ガラ紡機が売れ始めたことである。そしてガラ紡機の販売は、連綿社が行うのではなく、臥雲辰致が個人的に行っていたと考えられる。そもそも、ガラ紡機は臥雲辰致が独力で開発したものであり、販売権はひとり辰致にあった。少なくとも連綿社設立当初は、それでよく、そのような理解のもとに連綿社が設立された。しかし、ガラ紡機が広く認識されるようになるまでに、内国博覧会出品等に大量の資金が投入されるに至り、ガラ紡機が販売されても、連綿社はその利益に浴せず、ガラ紡機が売れれば売れるほど、辰致が多忙となり、連綿社内の作業が遅延し連綿社の経営を圧迫した。ここに至って連綿社は急速に経営の立て直しを迫られ、ガラ紡機の発明者である臥雲辰致とその支援者という立場を明確にし、両社の一致団結を謀って、利益確保が可能な組織に作り替えるためにこの条約書を作ったと考えられる。
■明治10年再び「専売特許願」提出
連綿社の計画の遅延に伴い、機械の発明とガラ紡機の拡販を優先させたい辰致と、連綿社の収益改善を最優先としたい協力者との間に、確執が生じる。「条約書」第三条はそれを表している。
すなわち、ガラ紡機が第一回内国勧業博覧会に出品されて、世間の注目を集めているが、このような状態になるのは、辰致を除く有志3人の莫大な資金援助のたまものであると書かれている。
そして、明治8年には受理されなかった「専売特許願」を再び提出するので、その結果得られる利益は、発明者と有志が平等で分配されるべきであると書かれている。
この専売特許の申請書「新発明綿紡機専売願」は明治10年11月に長野県に提出された。その控えが現在松本市波田の浅田家に保管されており、それを章末に掲載する。
この「新発明綿紡機専売願」の内容は、3章に掲載した明治8年提出の「専売特許願」を基に、多少の変更を加えたものである。
すなわち、ガラ紡機が第一回内国勧業博覧会に出品されて、世間の注目を集めているが、このような状態になるのは、辰致を除く有志3人の莫大な資金援助のたまものであると書かれている。
そして、明治8年には受理されなかった「専売特許願」を再び提出するので、その結果得られる利益は、発明者と有志が平等で分配されるべきであると書かれている。
この専売特許の申請書「新発明綿紡機専売願」は明治10年11月に長野県に提出された。その控えが現在松本市波田の浅田家に保管されており、それを章末に掲載する。
この「新発明綿紡機専売願」の内容は、3章に掲載した明治8年提出の「専売特許願」を基に、多少の変更を加えたものである。
■辰致は貧乏だったのか、驚きの事実
第四条には次の一文が書かれている。
『おいおい利益が多くなってきたら機械の数を増やすことは勿論のことであるが、増加する機械の経費を出さないものはたとえ発明人と言えども利益の分担はない。』
要するに、これから機械の数を増やすが、それともなってガラ紡発明人の辰致にも資金を提供せよと言っているのである。これは驚きである、何故ならば、これまでは辰致は技術者として連綿社に参加し、設備や経費に関しては武居美佐雄、波多腰六左、青木橘次郎が面倒をみてきた。それは臥雲辰致には拠出するだけの資金がなかったためである。しかしここにきて、辰致にも他3人の資産家同様に資金を拠出するように促しているのである。これは裏返すと、辰致に拠出するだけの資金ができたことを表している。辰致の資金源に関しては次章に書く。
『おいおい利益が多くなってきたら機械の数を増やすことは勿論のことであるが、増加する機械の経費を出さないものはたとえ発明人と言えども利益の分担はない。』
要するに、これから機械の数を増やすが、それともなってガラ紡発明人の辰致にも資金を提供せよと言っているのである。これは驚きである、何故ならば、これまでは辰致は技術者として連綿社に参加し、設備や経費に関しては武居美佐雄、波多腰六左、青木橘次郎が面倒をみてきた。それは臥雲辰致には拠出するだけの資金がなかったためである。しかしここにきて、辰致にも他3人の資産家同様に資金を拠出するように促しているのである。これは裏返すと、辰致に拠出するだけの資金ができたことを表している。辰致の資金源に関しては次章に書く。
■連綿社投資の失敗
第五条は読んで字の如しであるが、既に設備した5台の太糸ガラ紡機を整備して稼働させ、そのあとは細糸ガラ紡機を設備すると書かれている。これは連綿社が設備した5台の太糸ガラ紡機が既に時代遅れで、細糸ガラ紡機へ方向転換する必要があることを示しており、連綿社の投資の失敗を暗に示している。
■分社の規則
第六条は連綿社分社の規則が書かれている。これは既に、連綿社の分社のようなものが設立されて、分社側に勝手な動きがあることを示唆している。
出張の制限
第七条は出張の制限を記してある。これは多分忙しく動き回る辰致を引き留めようとしたものであろう。
■中途脱退への警告
第八条は連綿社からの中途脱退に対する警告である。出資がかさみ、一向に収益改善をみない連綿社からの脱退の動きがあったのだろう。この後おそらく青木橘次郎が脱退する。
■「条約書」が意味するもの
全体的にこの「条約書」の意味するものは、連綿社は臥雲辰致の発明したガラ紡機と織機を使って、紡績業と織物業を営むために結成されたが、ガラ紡機が急速に有名になり、売れ始めた。ガラ紡機の販売は連綿社とは関係なく、臥雲辰致が独自に行っているために、ガラ紡機がいくら売れても連綿社の利益にならないばかりか、辰致が多忙になり、連綿社に設備したガラ紡機の稼働ができない。このような状況の中で、辰致を除く連綿社の有志は、再度ガラ紡機の専売特許願の提出を行い、ガラ紡機販売の利益を連綿社の中に取り込もうとすると同時に、臥雲辰致の関心を何とか連綿社の紡績に向けさせようとしたのではないだろうか。なおガラ紡機の販売に関しては別の章に記す。
■連綿社条約書の訳
第一条
発明というものは、本来的に頭の中にあるものを現実として製造するものであるから、初めから確固とした目標は見えにくい。しかし今、我々は心を合わせ、共に永遠の幸福を謀り、かつ国益の一端をなす同志として集まった。であるから、会社の将来の成功は勿論、個人個人の上に何らかの事情が生じようとも、それを会社に及ぼすことなく、規則を守り、諸問題が発生した時は衆議討論を行い、間違った方向に進まず倹約を励行し、誠実に落ち着いて、他人と協力和睦をむねとし、常に変わることなく、皆が会社の発展を望むように。
第二条
太糸の紡績機五台を迅速に整備し、そのあと発明人並びに社員の中から一名を選出して、百般の事務を管理し、会計を明細帳簿に記入し、集会の折には必ず皆がそれを熟読すること。ただし、諸経費は全て判取帳及び出納帳に明細を記載し、計算が明らかになるようにすること。
第三条
太糸紡績機五台を整備した後は、毎月計算し、この利益を発明人と社員三名都合四名で平等に分けること。臥雲氏は発明の業績は大きいが、機械の性能が今日のようになるには、その経費は莫大で有った。しかしそれらの費用は全て社員参三人が支払、この苦労辛苦もまた少なくはない。
先ごろ東京内国博覧会へ細糸紡績機の出品時は、この機械の製造費は勿論、臥雲氏や機械の運転をする人夫の雑費や往復の費用全て、社員三名にて費用を負担した。、今後は審査して専売特許の免許を受け利益が出た分は、全ての利益は発明人社員の別なく四名にて分割し差別が無いこと。
第四条
おいおい利益が多くなってきたら機械の数を増やすことは勿論のことであるが、増加する機械の経費を出さないものはたとえ発明人と言えども利益の分担は無い。
第五条
太糸機械五台整備の上は、一時これを以って生産を上げ利益確保をすること。このようにして発明人社員はそれぞれ違った担当を定め、月給を定めて職務を遂行すること。
もっともこの費用も利益のうちより引き当てるは勿論のことである。
ただし、太糸機械を整備の上は、逐次細糸機械を製造できるようにすること。
第六条
分社の依頼があるときは、工場の建築及び水車水輪をかける費用は全て依頼人もち、本社は機械の定価の半額を出し、残りの半額は分社側が出し、利益を折半すること。ただし機械は一台につき七十五円のこと。
分社営業依頼の節は協議して不都合が無いようにすることは勿論のこと、分社側が勝手な行いをしないような規則を作り、捺印の上本社で保管すること。
第七条
臨時旅行の事務があるときは、衆議を以って其の人を選挙し、相当の日当を渡すこと。
第八条
社員若シ機械ノ成敗ヲ見テ中途出社スル者ハ夫迄多少出幣シタル金額受取ヘキ権理(ママ)ノナキコト。
第九条
もし社員に不都合があるときは、その社員を退社させその不都合の度合いにより、その後の利益の分割は勿論、出資した機械の利益分担の権利はない。
ただし、不都合が軽微な時は、社員が協議したうえで、よく調査したうえで、それ相当の処理を行うこと。
右の條を衆議検討をつくして決定後は違反してはならない。もし不都合の事件が発生した時は九条に即して処理しても異議を言ってはならない。
この後の部分に署名捺印しそれぞれの者が所持すること。明治十年九月九日
南第九大区七小区安曇郡烏川村
当時南第四大区三小区筑摩郡波多村逗留
臥雲辰致
南第四大区三小区筑摩郡波多村
武居美佐雄
同区同郡同村
波多腰六左
南第九大区四小区安曇郡倭村
青木橘次郎
第一条
発明というものは、本来的に頭の中にあるものを現実として製造するものであるから、初めから確固とした目標は見えにくい。しかし今、我々は心を合わせ、共に永遠の幸福を謀り、かつ国益の一端をなす同志として集まった。であるから、会社の将来の成功は勿論、個人個人の上に何らかの事情が生じようとも、それを会社に及ぼすことなく、規則を守り、諸問題が発生した時は衆議討論を行い、間違った方向に進まず倹約を励行し、誠実に落ち着いて、他人と協力和睦をむねとし、常に変わることなく、皆が会社の発展を望むように。
第二条
太糸の紡績機五台を迅速に整備し、そのあと発明人並びに社員の中から一名を選出して、百般の事務を管理し、会計を明細帳簿に記入し、集会の折には必ず皆がそれを熟読すること。ただし、諸経費は全て判取帳及び出納帳に明細を記載し、計算が明らかになるようにすること。
第三条
太糸紡績機五台を整備した後は、毎月計算し、この利益を発明人と社員三名都合四名で平等に分けること。臥雲氏は発明の業績は大きいが、機械の性能が今日のようになるには、その経費は莫大で有った。しかしそれらの費用は全て社員参三人が支払、この苦労辛苦もまた少なくはない。
先ごろ東京内国博覧会へ細糸紡績機の出品時は、この機械の製造費は勿論、臥雲氏や機械の運転をする人夫の雑費や往復の費用全て、社員三名にて費用を負担した。、今後は審査して専売特許の免許を受け利益が出た分は、全ての利益は発明人社員の別なく四名にて分割し差別が無いこと。
第四条
おいおい利益が多くなってきたら機械の数を増やすことは勿論のことであるが、増加する機械の経費を出さないものはたとえ発明人と言えども利益の分担は無い。
第五条
太糸機械五台整備の上は、一時これを以って生産を上げ利益確保をすること。このようにして発明人社員はそれぞれ違った担当を定め、月給を定めて職務を遂行すること。
もっともこの費用も利益のうちより引き当てるは勿論のことである。
ただし、太糸機械を整備の上は、逐次細糸機械を製造できるようにすること。
第六条
分社の依頼があるときは、工場の建築及び水車水輪をかける費用は全て依頼人もち、本社は機械の定価の半額を出し、残りの半額は分社側が出し、利益を折半すること。ただし機械は一台につき七十五円のこと。
分社営業依頼の節は協議して不都合が無いようにすることは勿論のこと、分社側が勝手な行いをしないような規則を作り、捺印の上本社で保管すること。
第七条
臨時旅行の事務があるときは、衆議を以って其の人を選挙し、相当の日当を渡すこと。
第八条
社員若シ機械ノ成敗ヲ見テ中途出社スル者ハ夫迄多少出幣シタル金額受取ヘキ権理(ママ)ノナキコト。
第九条
もし社員に不都合があるときは、その社員を退社させその不都合の度合いにより、その後の利益の分割は勿論、出資した機械の利益分担の権利はない。
ただし、不都合が軽微な時は、社員が協議したうえで、よく調査したうえで、それ相当の処理を行うこと。
右の條を衆議検討をつくして決定後は違反してはならない。もし不都合の事件が発生した時は九条に即して処理しても異議を言ってはならない。
この後の部分に署名捺印しそれぞれの者が所持すること。明治十年九月九日
南第九大区七小区安曇郡烏川村
当時南第四大区三小区筑摩郡波多村逗留
臥雲辰致
南第四大区三小区筑摩郡波多村
武居美佐雄
同区同郡同村
波多腰六左
南第九大区四小区安曇郡倭村
青木橘次郎
連綿社 条約書




(岡崎市美術歴史博物館 所蔵)
明治10年 新発明棉紡機専売免許願



(松本市波田 浅田氏 所蔵)