この章のまとめ
〇明治八年に提出された専売特許願いの草稿を書いたのは武居正彦である。
〇明治五年頃正彦は辰致に「西国立志編」を紹介する。辰致はその中のジェームス・ワットやリチャード・アークライトなどの説話に影響を受け様々な発明を行う。
〇明治5年ごろから辰致と正彦との親密な交友が始まり、やがて開産社、第一回内国勧業博覧会とつながっていく。
〇明治八年に提出された専売特許願いの草稿を書いたのは武居正彦である。
〇明治五年頃正彦は辰致に「西国立志編」を紹介する。辰致はその中のジェームス・ワットやリチャード・アークライトなどの説話に影響を受け様々な発明を行う。
〇明治5年ごろから辰致と正彦との親密な交友が始まり、やがて開産社、第一回内国勧業博覧会とつながっていく。
1、臥雲辰致の筆跡
前章で書いたように、辰致関係の資料として現在保管されている文書の中には、臥雲辰致と署名されていても、辰致の自筆ではない文書が存在する。特に辰致が官に対して提出した書類は、最終的には辰致自信が書いたのであろうが、その手本として辰致以外の人が書いたと、文書の筆跡などから断定できる書類が多い。そしてその手本の書き手を探すことは、その文書が書かれた当時の辰致の人間関係を推測する重要な手がかりとなる。そのためにはまず、辰致の筆跡を鑑定しなければならないのだが、それはあまり難しいことではない。常識的に考えて、辰致しか書けない内容の文書は、辰致自身の手によるものである。それはすなわち、辰致が発明した機械の説明書のごとき文書である。この条件にあてはまる文書が存在する。明治22年に辰致が甲村滝三郎、武居正彦と共同で特許を取得しようとした時の、紡績機の説明書の下書きである。
辰致自筆と思われる明細書下書きの一部

(岡崎市美術歴史博物館所蔵)
上に掲げた「明細書」と書かれた文章は、臥雲辰致が特許取得の為に書いた、紡績機の説明書の下書きである。なぜこれが辰致自身の手によるものと断言できるかと言うと、この文書には随所に訂正の跡があり、明らかに下書きである。さらに、ガラ紡機の構造と動作の説明は、発明者である臥雲辰致にしか書けないものである。
ここに、この文書と同じ筆跡であると推測される文書が存在する。それは辰致が、明治16年に東筑摩郡長に提出したガラ紡機の説明書である。以下それを掲載する。
ここに、この文書と同じ筆跡であると推測される文書が存在する。それは辰致が、明治16年に東筑摩郡長に提出したガラ紡機の説明書である。以下それを掲載する。
辰致自筆と思われるガラ紡機の説明書下書き

(岡崎市美術歴史博物館所蔵)
この文書は明らかに上の「明細書」下書きと同じ筆跡であり、臥雲辰致の直筆であることがわかる。
実はこの文書には手本がある。それを次に掲げる。
実はこの文書には手本がある。それを次に掲げる。
辰致の手本となったガラ紡機の説明書

(岡崎市美術歴史博物館所蔵)
この文書を見ると、一つ上の文書の手本であることが理解できると思われる。先に記したように、臥雲辰致の署名があるが、本人の筆跡ではない文書は全て、臥雲辰致が官に出した書類である。すなわち辰致は、正式な書類を官に提出するとき、それら正式な書類を書くことが出来る人物に手本を依頼したと思われる。
2、「専売特許願」草稿を書いたのは誰なのか
臥雲辰致が明治8年に出した「専売特許願」の草稿は、その内容から明治6年(臥雲辰致が測量機を作った年)以前に、辰致に対して中村正直(著)「西国立志編」をもとに、西欧産業革命の発明家の説話を話した人物が居て、この人物が書いた可能性が高い。それではその人物は誰であろうか。
そのヒントは村瀬正章(著)「臥雲辰致」の中にある。それは明治21年、明治10年の第一回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を授与されてから約10年が経過していた。辰致は「額田紡績組合」の招きで三河を訪れ、頭取の甲村滝三郎らと久しく歓談し、その中で新しいガラ紡機の考案に到達した。そしてその機械の特許申請を目指して一旦信州波多に帰る。
そのヒントは村瀬正章(著)「臥雲辰致」の中にある。それは明治21年、明治10年の第一回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌を授与されてから約10年が経過していた。辰致は「額田紡績組合」の招きで三河を訪れ、頭取の甲村滝三郎らと久しく歓談し、その中で新しいガラ紡機の考案に到達した。そしてその機械の特許申請を目指して一旦信州波多に帰る。
村瀬正章「臥雲辰致」
信州波多に帰った辰致は、はじめからの同情者・後援者であり、さきに松本連綿社の同志でもあった居村の武居正彦を訪れて、新しい熱意をこめて発明の内容を説明し、三河におけるガラ紡の隆盛を伝え、その有望なことを説いて援助を求めた。武居は中村敬宇について学び、漢学にたしなみの深い文化人であり、資産家でもあったが、辰致の熱意に心を動かし、同年初秋のころ、ともに三河の常盤村に甲村滝三郎を訪れたのであった。
ここに記されているように、還俗して間もなくの臥雲辰致に「西国立志編」の内容を語ったのは、漢学のたしなみがあり、中村敬宇について学んだ、武居正彦であることは間違いない。
3、武居正彦について
武居正彦

(武居家所有)
武居正彦に関しては、江戸末期より武居家と極めて深い姻戚関係がある、長野県辰野町小野の倉澤家が所有している、倉澤清也[1]が書いた「九十九(つくも)路の標(しるべ)」の中の「外戚武居氏の事」に次の記述がある。
美佐雄君三男二女あり、長男正彦家を嗣ぎ現時奈川村村長たり。氏や少壮小野貫一翁[2]につき漢学をおさめのちに東京にいたり、中村敬宇の塾に入り造詣見るべきものあり。三溝氏を娶り一男を挙ぐ命じて名を正彦と云う。(中略)三男烏川村岩原なる山口氏に養われ家を分かつ。
すなわち、武居正彦は上京し、中村正直が明治6年に開設した「同人社」[3]に学んでいたのである。
さらに、『波田村誌資料』(昭和九年調べ 波田尋常小学校館刊)に次の記述あり。
さらに、『波田村誌資料』(昭和九年調べ 波田尋常小学校館刊)に次の記述あり。
武居正彦 領之助とも称す。(嘉永六年十二月八日生、大正十年四月二十八日没、享年六十六歳)。
武居家三十代 筑摩県、小学師範学校卒業(明治七年十二月二十七日)、慶應義塾中退、波多村長ならびに助役就任、平田先生授業門人姓名録[4]中にあり。
武居家三十代 筑摩県、小学師範学校卒業(明治七年十二月二十七日)、慶應義塾中退、波多村長ならびに助役就任、平田先生授業門人姓名録[4]中にあり。
ではなぜ、武居正彦は臥雲辰致に中村正直著の「西国立志編」を語って聞かせたのであろうか。それを次章で明らかにする。
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[1]倉澤清也(きよなり)(1832~1921)は臥雲辰致が「連綿社」を設立した半官半民の会社「開産社」の分離解散時の社長。別名義随と称す。江戸末期から明治初期の勤王の志士倉澤義髄(義随ではない)として島崎藤村著「夜明け前」に登場する。
倉澤清也は明治13年開産社社長となる、辰致が開産社内に居を構えたのは明治9年から明治19年の間であるから、当然清也、辰致は面識がある。
[2]小野貫一 木曽福島の人、松本領筑摩郡嶋立組下波多村の招きに応じて郷塾を立てり。勤勉を以て著(あらわ)る。翁は京都江戸に漢学を選考すること年あり、十三経を暗じ、二十三史に明らかなり。
[3]「同人社」(どうじんしゃ)は、中村正直が開設した私塾。1873年設立、1887年廃止。明治後期には慶應義塾や攻玉塾と合わせて、「三大義塾」として並び称された。
[4]「平田先生授業門人姓名録」