2章「自筆履歴書草稿」の謎

この章のまとめ
〇臥雲辰致にはいわゆる『自筆の履歴書草稿』なるものが存在する。
〇『自筆の履歴書草稿』の姓名は”臥雲辰蔵”となっている。
〇この草稿と全く同じ内容の履歴書が、「明治十五年公文録 太政官一月全」に掲載されている。
〇この草稿は、明治15年に辰致が授与された藍綬褒章推薦用の履歴書の草稿と認められる。
〇この履歴書は一部開産社に関する内容を除き履歴書としては信頼がおけるものである。
〇履歴書からガラ紡機の発明は明治4年である。

1、名前が間違っている「自筆履歴書草稿」

 臥雲辰致に関する研究の先駆け書である「ガラ紡業の始祖 臥雲辰致翁伝記」の著者榊原金之助は、同書を書くにあたり、この「自筆履歴書草稿」を全面的に信頼しており、ここから臥雲辰致に関する歴史的な事実や経緯を読み取っている。しかし前の章で述べたようにこの履歴書の氏名は「臥雲辰蔵」となっており、更にこの「自筆履歴書草稿」の筆跡に関しても臥雲辰致の筆跡とは思えない。(臥雲辰致の筆跡に関しては別の章で述べることとする。)もちろん臥雲辰致が「臥雲辰蔵」などと名乗った事実は見当たらない。
しかしこの「自筆履歴書草稿」の不思議な点は、履歴書に書かれている内容と、臥雲辰致に関し一級資料より客観的に史実であると断定できる事柄を比較しても、殆ど相違が見当たらないことである。すなわちこの履歴書は、書いてある内容は正しいが、姓名だけが間違っている履歴書ということになる。

2、履歴書の謎とき

 「自筆履歴書草稿」に関して榊原金之助は「ガラ紡業の始祖 臥雲辰致翁伝記」の中で、『これより先、官褒章授与の詮議に際し、辰致に対し、履歴書の提出を命じた。』と書いている。筆者は、この榊原金之助記述の裏付けとなる資料を探していたが、最近国立国会図書館に「明治十五年公文録 太政官一月全」なる公文録が保存されていることが判明した(文書は章末に掲示)。この公文録には次の4点の資料が掲載されている。

1、農商務卿西郷従道代理参事院議長山縣有朋が賞勳局総裁三条実美に宛て「綿糸機械発明者褒章の義ニ付上申」
2、長野県令大野誠が農商務卿西郷従道代に宛てた、「綿糸機械発明者褒章之義上申」
3、臥雲辰致「履歴書」
4、明治十四年第二回内国勧業博覧会審査官大森権中より農商省工務局へ差し出された臥雲辰致の履歴

上記の記録より、明治15年に辰致に授与された藍綬褒章は、長野県令大野誠の推薦状が発端であることがわかる。長野県は褒章授与にあたり、東筑摩郡役所を通して、辰致に対して履歴書提出を命じたと思われる。褒章授与に対して長野県が主導権を持っていたのか、東筑摩郡が県に対して推薦したのかは明らかではないし、国が長野県に対して推薦状を出すように命令した可能性も否めない。履歴書の内容から、最初の履歴書の手本は武居正彦が書き、それを参考に臥雲辰致が自ら履歴書を書いて、東筑摩郡役所に提出したと思われる。しかしながらその履歴書の中には、東筑摩郡の官吏から見て、多少好ましからざる記述があったのだろう、官吏はこのように書きなさいという見本を、「東筑摩役所」と真中に表記がある罫紙に書いて辰致に渡し、履歴書を書き直すよう指導したのではないだろうか。「臥雲辰蔵」と書いたのは、官吏が間違ったのではなく、書いたものが見本であることを強調するために、故意に署名を変えた可能性がある。辰致はこれを参考に、新たに履歴書を書き直し、提出したのであろう。最初の履歴書の見本を武居正彦が書いたと断ずる理由は、履歴書の中に正彦が好んで使用する語句が含まれているからであり、これに関しては後述する。
それでは官吏は履歴書の中のどの部分が、不適当であると思ったのであろうか。実は履歴書に書かれている内容はほぼ正しいと書いたが、一部履歴書の内容に関して、首を傾げる部分がある。

35 五月三四ノ有志者ト協力シ大ニ機械ヲ製造セン事
36 ヲ謀リ居ヲ松本ニ移シ連綿社ト名ヅクル
37 一社ヲ設立シ専ラ機械製造ニ従事セリ
上記の記述であるが、辰致は明治9年に有志と共に紡績を含む綿工場を経営する目的で、ガラ紡機、機械織機と共に、松本開産社内に移住する。履歴書には松本開産社の事が一切書かれていないばかりか、松本移住の目的をガラ紡機製造の為と記している。実は、明治15年頃開産社はいくつもの問題を抱えており、開産社に関して官は触れてほしくない事柄であり、その部分を訂正したのではないかと、筆者は推測する。
いずれにしろ、公文録に全く同じ内容の履歴書がある以上、この履歴書は辰致の正式な履歴書であると断定できる。

3、ガラ紡の発明時期

榊原金之助は履歴書からガラ紡機の発明時期を明治6年と読み取ったが、実はそこに大きな読み違えがあったと筆者は疑う。
残念なことに、その間違いは、後の伝記作家や臥雲辰致研究者に継承され、ガラ紡機の発明時期は明治6年であるとの通説が確立されてしまった。榊原金之助がガラ紡機の発明時期を読み間違ったと筆者が断ずる理由を以下に述べる。
23 住職トナル時ニ年廿六才明治四年旧藩主ノ
24 勧誘ニヨリ還俗シ姓名ヲ臥雲辰蔵ト改メ居ヲ
25 鳥川村ニ定メ再ヒ紡糸機械製造ニ従事シ
26 初メテ太糸機械ヲ成功ス太糸ナルモノハ足袋底ニ用ユル品ナリ
27 同六年地租改正ニ付實地調査ノ際測量
28 器ヲ作り望人ノ需ニ應セリ
上に履歴書の一部を抜粋した。
23行目の途中から『明治四年旧藩主ノ勧誘ニヨリ還俗シ姓名ヲ臥雲辰蔵ト改メ居ヲ鳥川村ニ定メ再ヒ紡糸機械製造ニ従事シ初メテ太糸機械ヲ成功ス』とある。そして27行目に『同六年地租改正ニ付實地調査ノ際測量器ヲ作り望人ノニ應セリ』とある。
すなわち、ガラ紡機は臥雲辰致が還俗した明治4年その年に発明された。それではなぜ榊原金之助はガラ紡機の発明時期を明治6年としたのであろうか。榊原金之助は27行目「同六年」の「同」を前の史実と同じ年と読んだのである。しかしこの「同」は「明治」と読むべきであり、27行目は「明治六年地租改正ニ付實地調査ノ…」と解釈すべきであった。「同」という文字は28、32、38、44、48、55行目にも表れるが、それらを見ると「同」が「明治」を指すことは自明である。
すなわち、ガラ紡発明時期明治6年は榊原金之助の誤読によるものであり、それに続く伝記作家たちは誤謬の継承を行ってしまったのである。
ガラ紡の発明時期が明治6年でなく明治4年であることは、非常に大切なことである。なぜなら、辰致は僧侶になる前からガラ紡機の試作に取り掛かっていたが、構造上の欠陥がありどうしても実用化出来なかった。しかし、僧侶となってもガラ紡機の事が忘れられずに、自分が試作したガラ紡機のどこに欠陥があるか絶えず考えていたのだろうと推測できる。そして明治4年に還俗した時には既に、その対策方法が頭の中にあり、すぐに実験を行い初期のガラ紡機の欠陥を克服したものだろう。
『1章 「ガラ紡機の開発時期の謎」』の中で、中村精が「日本ガラ紡史話」をいかなる資料を基に記したか明らかでないとしたが、中村精がこの「履歴書」に従った可能性は大きいと考えられる。ではなぜ中村精がガラ紡機の発明時期を明治5年と書いたのか。それは中村精が、いくら臥雲辰致と言えども還俗した年にガラ紡発明は無理だろうと考えたからであろう。そして中村精は「履歴書」の中の明治5年と言う間隙を自らの想像で埋めたのである。しかしもし臥雲辰致が僧侶の時もずっとガラ紡機に関する熱情を持続させ、初期のガラ紡機の不具合に対する解決法を思いついていたとすると、還俗した年にガラ紡機の完成を見ることは決して不可能ではなかった。そしてこの事実は、「はたして還俗は臥雲辰致にとって不幸なことだったのか」と言う誰しもが持つであろう疑問に対する最大の答えでもある。

4、履歴書と解読

以下に岡崎市美術博物館所蔵の「履歴書」を資料として掲げる。

臥雲辰致履歴書

履歴書_01
履歴書_01
履歴書_01

(岡崎市美術博物館所蔵)
以下は榊原金之助著「ガラ紡業の始祖臥雲辰致翁伝記」を参考に筆者が読み解いた履歴書の内容であり、行は元の資料と同じにそろえてある。
1 履歴書
2     長野県下東筑摩郡北深志町
3        貮百貮拾八番地
4          臥雲辰蔵
5           三十九年六月
6 本縣下南安曇郡科布村横山義重二男天保
7 十三年年八月十五日生ル幼名ヲ栄弥ト云父家
8 耕農及足袋底製ヲ以生業ト爲ス
9 九歳ノ時加州人松下氏ニ就普通ノ習字ヲ学フ
10 十二三才ヨリ父兄ノ命ヲ受遠近ノ村落ニ奔走シ
11 綿ヲ配リ糸ニ製スル事ニ従事セシ力器具ノ迂ニ
12 シテ工事其労ニ堪ヘス因テ為以ク是力機械ヲ
13 作リ以テ自他ノ勞ヲ省力ハ可ナラント欲シ碎心
14 苦慮ノ功、空シカラス十四歳ノ末季ニ至リ一小機
15 械ヲ構造セリ然レトモ戯玩ノ具ニテ似未タ實用ニ
16 足ラス
17 十八才ノ時機械ヲ改良ス然レトモ未タ成功ニ至ラス
18 文久元年父兄ノ誘導ニヨリ同郡烏川村寶
19 降山安楽寺ノ住職智順二依リ僧トナリ法名ヲ
20 智恵ト名ク時廿歳爾来浮屠(寺)ノ中二在テ
21 経論ヲ謹スル事七年
22 慶應三年同郡烏川村臥雲山孤峰院ノ
23 住職トナル時ニ年廿六才明治四年旧藩主ノ
24 勧誘ニヨリ還俗シ姓名ヲ臥雲辰蔵ト改メ居ヲ
25 鳥川村ニ定メ再ヒ紡糸機械製造ニ従事シ
26 初メテ太糸機械ヲ成功ス太糸ナルモノハ足袋底ニ用ユル品ナリ
27 同六年地租改正ニ付實地調査ノ際測量
28 器ヲ作り望人ノ需ニ應セリ同八年官ニ請願
29 シテ紡績機械専蕒免許ヲ求ム官未タ其法
30 備ラサルヲ以許スニ公賣ヲ以其年本懸下東筑摩郡
31 波多村ニ移轉ス
32 同九年三月又復機械ヲ改遭シ且細糸機械
33 ヲ成功シ及ヒ機織機械ヲ考案シ一小機ヲ構造ス
34 旧筑摩県ニ請願シテ懸官ノ親臨ヲ仰ケリ
35 五月三四ノ有志者ト協力シ大ニ機械ヲ製造セン事
36 ヲ謀リ居ヲ松本ニ移シ連綿社ト名ヅクル
37 一社ヲ設立シ専ラ機械製造ニ従事セリ
38 同十年六月又機械ヲ改造シ機関上一変化
39 ヲ与へ良ヤ得ル処アリ則県官ノ親臨ヲ仰ケリ
40 九月第一回内囲勧業博覧曾へ出品辱クモ鳳
41 紋賞牌ヲ拝受セリ嘗時東京榊田連雀町ニ支
42 店ヲ設ケ各各府県有志ノ需ニ応シ五百八拾五個
43 ヲ販売セリ
44 同十年静岡県下駿河国沖津石川県下
45 越中国富山等ニ支点ソ開キ以テ大方ノニ
46 応セリ七月又機械ヲ改造ス九月北陸御巡幸ノ
47 節本県下長野展覧所ニ出品シ以テ天覧ニ供セリ
48 同十ニ年連綿社一式ヲ我一ト手ニ引受ケ各
49 支店ヲ閉チ以テ社務ヲ縮少ス
50 同十三年又機械ヲ改造シ且機織機械ヲ
51 成功ス六月当地御巡幸ノ節綿糸機織ノ二器ヲ
52 天覧ニ供セリ、同時太政太臣三条実美公我機械
53 場ニ親臨ス、七月前大蔵卿佐野常民公モ亦親
54 臨セラレ
55 同十四年三月綿糸機械の機関上大
56 変革を加ヘ大ニ精良ヲ得タリ四月綿糸機械ヲ第
57 二内内園勤業博覧曾へ出品進歩二等賞牌
58 ヲ拝受ス爾後尚考志ヲ加へ今日ニ至リヤ改
59 良ノ功ヲ奏セリ綿糸機械発明以来年ヲ
60 経ル事ニ十有七改造スル事八度ニシテ漸ク功用
61 キ物ト至レリ
62 右の通り御座候也
63 明治十五年一月右 臥雲辰蔵

5、明治十年公文録

この中の3番目の『臥雲辰致「履歴書」』は先に掲載した臥雲辰致の履歴と内容は全く同一のもので、「臥雲辰致自筆の履歴書」とされてきたものは、この草稿または写しであると思われる。
「明治十年公文録 太政官一月全」を次に掲載する。
明治十年公文録 太政官一月全

公文録
公文録
公文録
公文録
公文録
公文録

(国立国会図書館所蔵)