5章 出家、還俗そして出会い

この章のまとめ
〇文久元年(1861年)20歳の時に僧侶となった辰致は、明治四年松本藩の厳しい廃仏毀釈政策の為還俗する。
〇還俗した辰致は帰農して再びガラ紡機の発明に勤しむ。

1、辰致僧侶となる

 「履歴書」によると、臥雲辰致は文久元年(1861年)20歳の時に、父兄の誘導により安曇郡烏川村の寶降山安楽寺の僧となり、7年後に安楽寺の末寺である臥雲山孤峰院の住職となったとある。その理由として、多くの伝記書や臥雲辰致の研究書は、辰致が仏門に入った理由として、発明に熱中し家業を顧みない辰致にたいして、父母が辰致の将来を心配して、寶降山安楽寺の和尚智順和尚に相談し、弟子にしてもらった、と記している。しかしこのような辰致に関する言い伝えの大半は、後から推測されたものが多く、信頼性に乏しい。辰致の生家横山家は、農家のかたわら足袋底に使われる綿糸の材料となる綿花を三河などから仕入れ、他の農家の副業として配るいわゆる足袋底織の問屋も兼ねていたが、辰致が僧になる江戸時代末期は、長い鎖国時代が終わり、外国との貿易が始まり、インフレやイギリス製の綿糸、綿布が徐々に輸入され、横山家の足袋底問屋という家業にも影響が出てきたのではないかと推測される。もともと辰致は次男であるから横山家を継ぐ立場にはない。裕福な農家であれば、土地などを分割して分家するのだが、先に述べたように横山家も家業の存続が怪しくなる中、利発であった辰致をそのまま居候のような形で兄の家に置くのを、親や兄が惜しんだのではないかとも思われる。いずれにしろこの辺は何の資料も残っていないので、ここでは可能性を述べるにとどめる。

2、明治政府の宗教政策

 近代天皇制国家としての明治政府がとった宗教政策は、神道の国教化、すなわち国教としての「国家神道」の形成である。明治政府はまず以下の太政官布告令を発布する。

「祭政一致ノ制ニ復シ天下ノ諸神社ヲ神祗官ニ属ス」
(明治元年三月十三日、太政官布告令第百五十三号)
キリスト教に関しては、明治初期に於ける数年間は旧体制の江戸幕府と同じく、禁止の姿勢を明白に持っていた。
一、切支丹宗の儀は、是迄御制禁の通固く可相守候事
一、邪宗門の儀は固く禁止の事
(慶應四年三月、太政官第三札)
しかし岩倉具視が維新後右大臣となり、その後不平等条約改正準備のために特別全権大使として欧米各国を巡聘している。この巡視中岩倉は切支丹宗國禁の一条について痛烈な非難を浴びることになる。その結果、帰国を待たずして電報により、日本に耶蘇教禁制の高札を撤廃することを指示するのである。すなわち明治政府は初めから宗教政策の難しさに直面する。
仏教に関しては、
「神仏混合ヲ禁ズ」
(明治元年三月二十八日、太政官布告令第百九十六号)
「神社ノ仏像等ヲ除去ノ際社人ノ粗暴ヲ戒ム」
(明治元年四月十日、太政官布告令第二百二十六号)
「社寺ニ於テ菊章ヲ用ウルヲ禁ス」
「明治二年八月二十五日、太政官布告令第八百三号)
「許可ヲ経スシテ社寺ヲ創立スルヲ禁ス」
(明治五年八月三十日、大蔵省達百十八号)
等の布告、達を出す。
これは、奈良時代から行なわれてきた神仏習合を禁じ、神道と仏教とを完全に分離する、祭政一致という政策であるが、旧体制としての徳川幕府が重んじていた宗教としての仏教を排除することにより、新体制への移行を完全たらしめる意図があったものとも考えられる。
ところで、太政官布告令で「粗暴ヲ戒ム」とわざわざ布告するということは、実際にかなり厳しい抵抗があったものと思われる。幕末から明治初期にかけて、急速に興隆してきた復古神道の潮流は、長年江戸幕府の封建体制下で抑圧された恨みも手伝って、各地で神職の地位向上と神葬祭への要求が高まってくるのである。実際の所、新政府が意図したところのものは、どの程度のものであったかは図りかねるが、神仏分離は即ち全国的な廃仏毀釈への運動にまで激化するのである。
(上村敏文「明治維新政府の宗教政策」を参考)

3、松本藩の廃仏毀釈

松本藩主後の松本藩知事戸田光則(みつひさ)は過激な廃仏毀釈を行ったがその確たる理由は判然としない。ただし、以下の事柄を理由として挙げる人もいるので書いておく。
慶應4年、鳥羽伏見の戦いの後、官軍に帰順するか、佐幕を貫くかで藩論が二分し、官軍に帰属するという結論が出たときは、官軍がすでに中山道三十二番目の宿場本山宿(現在の塩尻市)まで来ていた。その為帰順が遅いということで、藩主戸田光則(みつひさ)は約1か月の藩主謹慎処分を受ける。その後光則はその汚名を挽回すべく、松平の姓を廃して本姓の戸田に戻し、戊辰戦争では、新政府軍の一員としてめざましい活躍をする。さらに戸田光則は水戸学を奉じていたといわれ、明治維新後、神道を国教とする新政府の政策に追従し、神道化の為に仏教を抑圧・排斥した「廃仏毀釈」を過激なまでに実行したといわれている。
戸田光則が実際に激しい廃仏毀釈を行ったのは、明治3年以降であり光則が、松本藩知事になってからである。
明治三年、松本藩知事戸田光則が政府の弁官に提出した神葬祭実施の伺書が残っているのでそれを章末に掲げる。

4、辰致廃仏毀釈により還俗

 僧となってから10年、辰致が住職を務める、烏川村の山の中腹にある寺、孤峰院も、江戸から明治へと変わる日本の歴史的大転換期の荒波を避けることは出来なかった。辰致が孤峰院の住持を務めてわずか4年の明治4年(1871年)には、松本藩の廃仏希釈によって、末寺の孤峰院は本寺の安楽寺ともに廃寺になる。
松本藩の廃仏毀釈は、全国的に見ても激しいものであったが、藩の廃仏毀釈の命令はその地区を支配している大名主、大庄屋を通して実行された。辰致が住職の孤峰院とその本寺の安楽寺は、当時岩原村の山口家が廃仏毀釈の実務を行ったと思われる。すなわち、安楽寺の僧侶や辰致は還俗後の身の振り方などを山口家と相談しながら決めたことになる。村瀬正章(著)「臥雲辰致」にこの辺のことを書いた記述がある。
臥雲辰致還俗についての記述
…このようにして、その勢いは藩内一般におよんで、檀家の少ない安楽寺、および孤峰院も廃寺の運命に立ち至ったのである。智恵(辰致)は、岩原村の庄屋山口吉人とたえず相談し、還俗することになった。
(村瀬正章(著)「臥雲辰致」より)


当時山口家の当主すなわち庄屋は、吉人の義父庫吾である。明治4年山口家当主の庫吾が病弱な為、吉人が代理を務めていたのであろう。
更に同じ本に

…安楽寺の檀徒総代であり岩原村の庄屋であった山口吉人氏の長男清三氏に語るところは、みな「たっち」と呼んでいたということである。
とあるが、「山口吉人氏の長男清三氏」も間違いで、山口吉人氏の長男は「誠象」である。
この文章から明らかなように、村瀬正章氏は山口誠象氏に取材しており、武居正彦のことは誠象氏から聞いたものであろう。

5、還俗後の臥雲辰致

 明治4年、還俗した辰致は、名を僧以前の栄弥から辰致と改め、苗字は孤峰院の山号からとった臥雲として、廃寺となった孤峰院を住みかと定め、住居の下の1町歩弱の畑を寺から引き継いで、農民として新たな生活を営み始める。この辺は山口家との話し合いによるものであったと思われる。「履歴書」によると、辰致は再び紡績機の製造に取り掛かるのである。
そしてそこで運命的な出会いがあった。

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資料1

廃仏毀釈と寺請制度
寺請制度(てらうけせいど)は、江戸幕府が宗教統制の一環として設けた制度。寺請証文を受けることを民衆に義務付け、キリシタンではないことを寺院に証明させる制度である。必然的に民衆は寺請をしてもらう寺院の檀家となったため、檀家制度や寺檀制度とも呼ばれるが、厳密には檀家制度と寺請制度は異なる(詳しくは檀家制度を参照)。
その目的において、邪宗門とされたキリスト教や不受不施派の発見や締め出しを狙った制度であったが、宗門人別改帳など住民調査の一端も担った。
具体的には、仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける制度である。寺請制度の確立によって、民衆はいずれかの寺院を菩提寺と定め、その檀家となる事を義務付けられた。寺院では現在の戸籍に当たる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際にはその証文(寺請証文)が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入を保証される形となった。
一方、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教導を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担うこととなった。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなった。この事が明治維新時の廃仏毀釈の一因となった。
(wikipediaより)

資料2

戸田光則伺書
願書
微臣光則、非才薄徳ノ身ヲ以テ、乏ヲ松本藩知事ニ承ケ、寵遇優渥、日夜勉励仕候得共、管内之儀ハ僻在之地 ニシテ、民心頑固、加之仏教侵淫、狡猾黙衲、毎ニ志ヲ得ル民ヲ震憾セシメ、許多ノ財宝ヲ獲取シ、大此道ノ 榛蕪ヲナシ、何分皇国固有ノ大義ヲ妨凝シ、敬神ノ典ハ至急ニハ行ヒ難ク、実ニ憂慮之至リニ付、臣身ヲ以テ 引率シテ士庶人ニ至ル迄、仏教ノ信スルニ足ラス、祭政維一ナル我皇国不易ノ大典万国ニ独立スル御趣旨浹洽 仕セ度目的ニ有之候間、最初臣一家ヲ始、神葬祭ニ仕、当藩士族卒志願次第承届、遂ニハ管内悉ク神葬祭ニ相 改サセ度奉存候、附テハ臣力菩提所当藩松本町曹洞宗全久院、同埋橋村同宗前山寺儀日一家一同神葬出願承届上 ハ、無日一地ニ相成、有名無実ニシテ、無益ノ産物ニ付、廃却仕、住僧生活相立候迄、臣家禄ノ内ヨリ給助仕、 両寺共学校等ニ相改メ度、其他管内寺院無日一無住ノ産物ハ、同様廃却仕度、此段奉伏願候、恐惶謹言、
明治三年庚午八月
弁官御中
(小笠原 弘道 「現代密教」 第十四号 真言宗智山派の智山伝法院が発行 より)
上記伺書概約
願い書
この地の民衆は頑固な気質だが、それにもまして仏教、つまり僧侶たちの品行が乱れている僧侶はずるがしこく、人々から多くの財宝をかすめ取り、民衆を震え上がらせている。仏教が「皇国固有ノ大義」を妨害しているため、民衆に神を敬う心を持たせることは非常に難しく、実に憂慮すべきことである。このことから、この国家において仏教を信仰することは全く無意味であると判断する。そこで、まず手はじめに戸田一族をこれまでの仏教による葬儀から神葬祭に変える。そして、おいおい藩の士族たちが志願してきたならば受け入れ、最終的には藩内すべての者が悉く神葬祭に改めさせる ことを願う。 戸田家の菩提寺である曹洞宗全久院(松本町)と同宗前山寺(埋橋村)では、檀家の者すべてが神葬祭 に改式したいと願い出た。この結果、二寺とも檀家がなくなり、寺は有名無実で無益な産物となった。 そこでこれらを廃寺としたい(もちろん、住職の生活については私の家禄の中から保証する)。そして これらの寺は学校などに利用したい。藩内のこのような無檀無住の寺院についても、同様の処置、すなわち、廃寺にすることを望む。 これらによれば、まず、仏教(寺院及び僧侶)は不必要なものであるということを指摘し、藩内すべての者を仏葬から神葬祭に改め、その菩提寺から檀家をなくしてしまう。そして、その無檀無住の寺については有名無実であることから廃寺にし、そこを学校などに利用したいがいかがでしょうか。