8章 松本移住の謎

1、波多村から松本へ

ガラ紡機が展示されていた開産社水車工場

(長野県市町村誌 南信編 東筑摩郡南深志町-全体は「開産社の謎」に掲載 右上部の一部を拡大-
建物は二棟あり、奥が水車小屋、手前が紡糸機械所、右側に石段があり、開産社女工場へと続いている

 明治8年に岩原村から波多村に移住した辰致は、翌年2月には波多村の川澄東左所有の水車にガラ紡機と織機を取り付けて、翌月の3月に試運転を行い旧筑摩県の県官に親臨を仰いだ。このことに関して榊原金之助「臥雲辰致翁伝記」には次の記述がある。
…精進を重ねた結果、遂に明治九年三月に至って機械の改造に成功し細糸の製造に適するものとするとともに別に機械織機を考案して一小機を作った。よって辰致は新造の紡績機、織機を提げて筑摩県庁に請願し県官の臨席指導を求めた。時に政府は大久保内務卿の指導の下に殖産興業の大旆を翳して全国に保護奨励を行っていた時だったので、県吏河合、杉浦両氏直ちに出張し機械を見、これを運転せしめてつぶさに調べてみたところ、従来の手紡車に比べて非常にすぐれたものであることが分かったので、大いに其の効用を賞し之を松本の開産社に出すことを勧め、出品についての種々斡旋の労をとるところがあった。
(榊原金之助著「ガラ紡績業の始祖 臥雲辰致翁伝記」5P)
履歴書にも記載がある筑摩県の県官とは、いったいどのような官職であったのか。有賀義人著 「市川量造とその周辺」に次の記述がある。
これより先権令は、既述のような下問会議に諮詞した翌日、すなわち明治六年二月一七日に管下の大区長に勧業掛兼務(註、区長には区長としての本務がある)を命じているが、権令は彼等に勧業社設立の発起人のような位置を与へたのである。そしてさらに同日付で左記の二十四名に勧業掛を命じ、大区長と共に勧業社の設立に当らせたのである。
伊藤文七(南深志馬喰町)、大池源十(南深志本町)、神田久蔵(深志本町)、市川量造(北深志横田町)、上条清治(南深志本町) 堅石助十郎(南深志伊勢町)、折井庄司(白坂村)、大和藤八郎(小俣村)、林善左エ門(岡谷村)、藤沢六郎治(高遠村)、小平源三郎(上諏訪村)、河野百寿(南深志本町)、土橋彦太郎(上諏訪村)、北原庄三郎(栗田村)、石田甚内(塔原村)、市川恭造(池田村)、千国三代志(千国村)、矢島八郎(南河内村)、小川金蔵(御射山神戸村)(追加)丸山登、青木積一郎、林所平、井上十載。
これのみではなく永山権令は、さらに大属黒田直方、権大属渡辺千秋、中属市川昭智、権中属北原稲雄、仝川井保厚・十二等出仕大河原平六、権小属杉浦義方のような県庁の官員等にも、勧業社設立及びその運営等についての県としての指導的な業務を担当させている。権令は以上のような人達を鞭撻して、勧業社設立のことに拍車をかけていったのである。(「市川量造とその周辺」 有賀義人著 172p)
上記から明らかなように、『県吏河合、杉浦両氏』と言うのは、開産社(勧業社)係の、権中属川井保厚であり、杉浦は権小属杉浦義方である。すなわち、榊原金之助著「臥雲辰致翁伝記」河合は川井の誤りであり、この本を参照した伝記本はここでも誤りの継承をしている。国会図書館に明治6年の「筑摩県職員録」があるので参考に掲載する。ただしこれは全部では無く一部を抜出してある。
この時点で開産社関係の県官が見に来ているということは、興味深いことである。
明治6年筑摩県職員録

kenkan

‘国立国会図書館所蔵 一部抜粋)

2、ガラ紡機を松本開産社内に移動したのは予定の行動か

 ここで一つ大きな疑問が湧く。岩原村から波多村への移住は明らかに、綿密な計画のもとになされたものであるが、波多村から松本開産社内への移動は、初めから計画されたものであったのだろうか。これには2つの可能性がある。
1、初めから計画されたもので、波多村への移住はガラ紡機と織機がきちんと動作するか否かの実験の為であった。
2、初めは波多村で起業しようと計画していたが、その過程で開産社移動の変更が生じた。
残念ながら、現在の資料では実際はどちらかであったか判断が困難である。しかし筆者は後の方の可能性が高いと考える。その理由は「波多村移住に謎」の中で掲載した明治9年2月29日の信飛新聞の中で、『追々増築して盛大にする』と書かれているからである。これは明らかに川澄宅の水車場の増築であり、この時点ではまだ松本移転の計画は、なかったと思われるのである。

3、信飛新聞の記事

 ガラ紡機が松本開産社内に運び込まれた様子は明治9年5月19日の信飛新聞が以下のように伝えている。
弊社百二十一三濠ニ報ジマシタ、四大區波多村ニテ、製木綿絲器械并ニ製布器械トモ新発明ノ工夫ガイヨ々成功致シ、四五日前ニ北深志町ノ開産社へ運搬シテ、該社ノ水車場女鳥羽川ノ流ニ右ノ器械 ヲ据へ縣官之ヲ五覧ナサレテ誉メガアリマシタ。イヤ工夫ト云フモノハ恐ロシイモノデアリマス、東京王子ノ器械[1]ナドハ至テ手軽デ、繰綿ヲキリ々絲ニ引キ出ス所ハ、サナガラ婦女子ガ糸操車ヲ数十人並テ、木綿ノ糸ヲ引出スヤウデス。製布の器械ガ杼ヲ遣梳紐ヲ打ツ仕掛ケマ、能出来マシタ。此器械ノ発明人ハ懸下九大區ノ臥雲辰致サンデ、波多村ノ波多腰サンガタガ、奮激カラ落成ノ果ガハヘマシタ。国益ヲ興スノー器ジャ智恵袋ヲ振ッテ皆サン新発明ヲスレバ、日本ノ身上ヲ立直ス義務ヲ識人間仲間ノ上等連左モ無ク、世間流行ニ連レ兄弟利得ノ工夫バカリデ、兄ハ弟、弟ハソノ又弟ヲ謀リテ、利ヲ射ル如キ蓄財商法デハ、新聞屋ハ餘リ誉ラレマセンテネ、エ開次郎サン。
(明治九年五月十九日 信飛新聞より)

4、開産社内の辰致の工場

 臥雲辰致と有志達が設立した連綿社に関しては、伝記書などでもほとんど書かれていない。そればかりか、連綿社があった開産社に関しても、十分な研究がなされていないのが現状である。そんな中、開産社最後の社長であった倉澤清也家に、連綿社の数少ない貴重な史料が残っているので掲示する。(ただし、開産社の資料の中には、「連綿社」という名前は出てこない。)
明治11年に開産社から県庁宛に出された、北原稲雄筆の
「開産社方今景況書上」と書かれた資料


(倉澤家所蔵)
開産社内に在った辰致と有志のガラ紡工場
「綿打場」「細糸機械六百口、太糸機械四百口」と記されている

(倉澤家所蔵)

綿糸機械場は、西側の水車屋と隣接している(『長野縣町村誌南信篇』口絵拡大図参照のこと)。綿糸機械場は間口10間、奥行き7間となっており、細糸機械600口、細糸機械400口のガラ紡機が置かれている。2間程離れて左側に、綿打場がある。水車で稼働する機械織機の記述が無いが、記録によると水車場は2か所あることになっているので、こことは違う場所に置かれていたのかもしれない。水車屋は、有志4人の設立の為、社金不要との記録あり。

「開産社 社金元受帳」




(倉澤家所蔵 抜粋筆者)

上に掲げた画像は、「社金元受帳」と書かれた表紙の資料で、1ページ目に「家賃取立」とある。これは倉澤家に保存されている、開産社の帳簿関係24冊のうちの1冊とのこと。これには明治9年2月17日から同18年8月31日までの家賃の取り立てが記されているとのことである。この資料だけでは判断が難しいが、水車場と紡糸機械所は併設されており、水車場は臥雲辰致と3人の有志が建設したもので、水車場に関しては、開産社からは賃料は請求され無かったと思われる。
この資料の中から、臥雲辰致に関する部分を抜き出して下に記す。

  

No 年月日 金額 項目 付記
1 十年十月 金十五円 紡糸機械所家賃 九年十月から十年十二月までの分
2 十一年六月三十日 金九円 紡糸機械所家賃 三月迄年十二円、四月から二十四円分割
3 十一年十二月二十六日 金十二円 紡糸機械所家賃 年二十四円割後半年分
4 十二年六月二十九日 金十二円 紡糸機械所家賃 十二年前半年分
5 十二年十二月二十六日 金十二円 紡糸機械所家賃 十二年後半年分
6 十三年六月二十九日 金十二円 紡糸機械所家賃 十三年前半年分
7 十三年十二月二十日 金十二円 紡糸機械所家賃 十三年後半年分
8 十四年十二月二十八日 金十九円 紡糸機械所家賃 ただし十四年から本年〇〇五円引
9 十六年三月二十四日 金十二円 紡糸機械所臥雲辰致 家賃〇〇 ただし十五年分なり
10 十六年十二月二十八日 金十二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 六月から九月まで分
11 十七年五月十九日 金二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 十六年十月、十一月分〇〇
金五円 右両人家賃 十六年十二月、十七年一月分
12 十七年五月三十一日 金二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 同所 二月分
13 十七年六月十七日 金二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 同所 三月分
14 十七年七月二十一日 金二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 四月分
15 十七年八月三十日 金二円五十銭 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 五月分
16 十八年五月十日 金十円 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 十七年六月より同九月まで四か月分
17 十八年六月七日 金二十円 臥雲辰致、百瀬軍次郎 家賃 十七年十月から十八年五月まで
 十八年六月三十日 金一円十五銭 小松森次郎 家賃 六月分
十八年六月三十日 金一円三十五銭 臥雲辰致 家賃 六月分
履歴書によると、辰致と有志3人が、波多村川澄宅の水車場より、松本の開産社内の水車場にガラ紡機と機械織機を移設したのは明治9年5月である。紡糸器械所の家賃は明治9年10月から支払われているので、5月から9月までの5か月間の家賃は猶予されていると思われる。

5、辰致、綿工場の経営者となる

 明治13年の巡査の初任給が4円であったことから、明治初期の1円は現代の価値に換算すると、4万円といったところであろう。
連綿社は、開産社内に間口10間、奥行き7間の社屋を借りており、明治9年10月から明治10年12月までの15か月の間は、一月あたり1円の賃料を、明治11年1月から明治13年末までは1か月あたり2円の賃料を開産社に納めている。記録によると、明治11年連綿社には、20機のガラ紡機があり、細糸600紡錘、太糸400紡錘を備えていた。別の章で説明するが、明治10年9月に書かれた「連綿社条約書」では、太糸用ガラ紡機5台を早急に整備し、そのあと細糸用ガラ紡機を設備する予定と書かれているから、計画は順調に進んだとみることが出来る。さらに、倉澤文書によると、この時期連綿社は月60円の利益を出している。この連綿社は明治13年に辰致一人が機械、設備権利等、すべてを買い取って、経営することとなる。

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[1]東京八王子の機械とは、鹿島万平が明治5年民間初の近代的紡績工場の鹿島紡績所を東京滝野川に創設。記事はこの機械よりははるかに手軽であるとの意味。