9章 機械織機の謎

機械織機の発明

辰致「履歴書」によると、辰致はガラ紡機発明と時を同じくして、機械織機を発明している。
32 同九年三月又復機械ヲ改造シ且細糸機械
33 ヲ成功シ及ヒ機織機械ヲ考案シ一小機ヲ構造ス
機械織機に関しては、明治9年2月29日、同9年5月15日の信飛新聞にも以下の記事が載っている。
四大区波多村ニ於テ、木綿製糸器械並ニ、製布器械新発明ガ出来、経撿(タメシ)ノ上器械場築造ニ取掛タサウデ五座リ升。
其器械ハ、水車ニ仕カケ差向一日ニ、日本綿百把ヲ絲ニシ、布ハ三十反[1]ヲ織ルサウデス。
(明治9年2月29日 信飛新聞記事)
製布ノ器械ガ杼ヲ遣梳紐ヲ打ツ仕掛ケマ、能出来マシタ。
(明治9年5月15日 信飛新聞記事)
このように臥雲辰致が明治8年から同9年にかけて、水車を動力とした綿布織機を発明したことは間違いない。しかしながらこの明治9年5月15日の記事以後、辰致発明の機械織機の話は出なくなる。臥雲辰致他有志3人が設立した連綿社の業務目的を記した条約書の中にも、織機に関する事は何一つ書かれていない。このことは、辰致発明の水車を動力とした織機は、波多村の川澄家水車場より、松本女鳥羽川の開産社所有の水車に接続されいったんは稼働したが、何らかの都合により、稼働が取り止めになったと考えられる。一般的に一度稼働した自動機の操業が中止となる理由は、人手を使った機械に比べ効率が良くなかったか、機械の維持管理、すなわちメンテナンスに金と時間がかかったかのどちらかであると思われる。そもそもこの明治8年から9年というのは、織機にとってかなり大きな変革があった年である。すなわち、イギリスの産業革命が始まるきっかけともなった、飛び杼が日本に伝来したのである。
以下の論文「近代日本の技術と技術政策」を参照されたい。
明治5年、京都府は織物伝習生、佐倉常七、井上伊平衛、吉田忠七の3人をフランスのリヨンに派遣した。翌年帰国したとき,彼らはジャカード、バッタンなどを購入し持ち帰った。明治7年4月、第2回京都博覧会に、この持ち帰ったバッタン20挺が出品され、ここからバッタンは広く知られていくようになった。この後も京都では織工場(後の織殿、京都市二条河原町)において伝習生たちにバッタン操法を研修し、これら伝習生たちが日本全国の織物地方へバッタン技術を伝えていくことになった。また別にオーストリアのウィーン万国博覧会から佐野常民がバッタン一式を購入してきて、明治8年東京山下門内勧業試験場でこれを紹介した。
京都および東京を出発点としたバッタン技術は第1表に示すように綿織物地帯では和泉南部、紀州へは明治8年に早くも導入され、つづいて名古屋、河内、知多、三河へと広まっていった。絹織物地帯では岩手、川俣へ明治9・10年に石川,福井へ、明治10年、桐生へ明治16年に移植されていった。
(近代日本の技術と技術政策 第2章:繊維機械技術の発展過程 織機・紡績機械・製糸機の導入・普及改良・創造 著者名: 石井 正 出版社: 国際連合大学)

飛び杼とは

飛び杼

飛び杼

(Wikipediaより)

杼とは、一種の糸巻きである。布を織る際、ぴんと張った経糸(たていと)を開いて隙間(杼口)をつくり、その間に緯糸(よこいと)を巻いたこの糸巻きを、投げ入れたり反対側から手ですくい取ったりして、緯糸を左右一方の端から反対側の端まで通す役割を果たす。飛び杼(flying shuttle)は、1773年にイギリスの発明家ジョン・ケイが今まであった杼にローラーを付け、杼が往復する織機の両端にバネを仕込み、紐を引くことにより、杼がまるで宙を飛ぶがごとく移動して素早く横糸を通すことに成功した。「前にも書いたように、この飛び杼は日本では「バッタン」と呼ばれ、明治9年~10年ごろ急速に普及し、手織り機の効率が3~5倍に上がった。当時イギリスから安価な綿織物が日本に輸入されて、江戸時代から続いた問屋制家内工業の綿織物業が壊滅的な打撃を受けていたが、この飛び杼による織工程の効率化で、一息つくことになる。この飛び杼の普及により、さらなる安価な日本製の綿糸が求められ、これがガラ紡機に普及のも拍車をかけたといわれる。

辰致発明の機械織機は飛び杼を使っていたのか?

辰致が、初めて機械織機を動かしたのは明治9年の2月である。一般的に、機械を設計試作するには、6か月ほどの日数が必要になる。これを逆算すると遅くても、明治8年の中頃には機械織機の設計は終わっていなければならない。明治8年の中頃までに、岩原村に飛び杼の情報が伝わっていたのか否かは不明であるが、信飛新聞の「製布の器械ガ杼ヲ遣梳紐ヲ打ツ仕掛ケマ、能出来マシタ。」という記事は、「器械が杼を使って梳紐を打つ」と書いてあり、これは飛び杼の事であろう。辰致が飛び杼を知っていたとしても、現物を見たわけではなく、およその構造を伝聞で知っただけであろう。残念ながら辰致が発明した機械織機に関しては全く資料が残っていない。
既に引用した同じ論文の中に次の記述がある。
(1)渡辺・柴田製:長野県松本の渡辺恭、柴田徳蔵兄弟は第1回内国勧業博覧会に水車織機を出品、後にさらに改良し、これを鹿島紡績所の水車を使って運転した。14、5歳の小女子を1人1台で配置して1人1日の織出す木綿は4反から5反に及んだという。第2回の内国勧業博覧会へは足踏機に改造して出品している。
(2)寺沢式:栃木県の寺沢幸三郎は明治24年7月から力織機の製作を始め、明治25年8月に完成した。およその寸法は長さ5尺、横3尺3寸、高さ2尺2寸で全体は木製、重要部分のみ金属製で1台の織上げ10時間で平均4反半,価格は1台15円から30円であった。
(3)豊田式:豊田佐吉は明治20年頃から織機の改良を行い、明治23年に改良バッタン織機を作り、さらに明治29年に力織機を作りあげた。この力織機を改良する過程で重要な発明を数多く生みだし、とくに経糸の積極送り出しに関する発明は当時の繊維機械技術水準からみると、きわめて高水準のものであった。性能はおよそ普通真岡木綿並幅2丈尺物で、1台1日2反半から3反を織立て、工女1人で2台から3台を受持つとある。価格は当初原価23円,売価38円であった。
(近代日本の技術と技術政策 第2章:繊維機械技術の発展過程ー織機・紡績機械・製糸機の導入・普及改良・創造ー 著者名: 石井 正 出版社: 国際連合大学)
渡邊恭、柴田徳蔵出品の水車織機

渡辺

(明治前期産業発達史資料より)

渡邊恭、柴田徳蔵兄弟の発明した機械は、1時間におよそ6尺の木綿を織ることが可能という。歯車により綜絖を上下させ、連動した革ベルトと螺旋によって筬を打つ。杼箱の中にはバネがあり、杼を動かす。更にこの兄弟は、第2回内国勧業博覧会では足踏機に改造したものを出品し、有功賞牌二等を受賞した。そのことからも当時は、水力による織機が普及しなかったことがうかがわれる。
ガラ紡機は、洗練されたシンプルな構造が、ほとんどの部品が木製という耐久性において極めて不利な部分をカバーしているのに比して、機械織機は一本一本の経糸を上げ下げする綜絖の精密な機構をはじめ、複雑な機構から、耐久性に問題が有ったのではないかと筆者は想像する。それに加えて、飛び杼の普及が、問屋制家内工業に弾みをつけて、農家などの内職として手動の織機が普及したために、水車を動力とした織機は普及しなかったと思われる。なお、本格的な機械織機はこれから10年後の明治20年頃から豊田佐吉により発明される。
それにしても、同じ松本から第一回内国勧業博覧会に紡績機と織機が出品されたことは驚きに値する。果たして、臥雲辰致と渡邊恭、柴田徳蔵兄弟との交流はあったのだろうか。今後臥雲辰致発明の機械織機の歴史的な資料が見つかることを期待する。
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[1]反 一反はおよそ、幅約37センチ、長さ約12メートル50センチ。