10章 博覧会出品の謎

1、第一回内国勧業博覧会

「内国勧業博覧会之図」 方円舎清親

勧業博覧会

(国立国会図書館所蔵 編集筆者)

 明治6年6月、世に名高い岩倉使節団は、オーストリア訪問の際、折から開かれていた「ウィーン万国博」(入場者数722万人)を視察した。岩倉使節団の出発は、明治4年11月である。長い封建制度から抜け出してわずか4年、明治政府の基盤が盤石ならざりし時に、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文等の政府要人約50名が、1年9か月に長きにわたり、日本を空けるという極めて異例な事態であったが、この時の経験が、その後日本の文明開化に役に立ったことは間違いない。ウィーン万国博には日本も出品をし、その後臥雲辰致の理解者となる、佐野常民がウィーン万国博覧会の事務副総裁として、ウィーンに派遣された。初代内務卿となる大久保利通は、日本国内のごたごたの為、ウィーン万国博を見ることは出来なかったが、このウィーン万博に倣って、明治10年8月内務省の主導で、第一回内国勧業博覧会を開催する。半年前に西南戦争が起こり、開催を危ぶむ声もあったが、博覧会は無事に開催された。会場は東京上野公園、会期は8月23日から11月30日までの102日間で、約45万人の入場者をみた。この博覧会の出品数では、紡織産業が多くの割合を占めたが、その中で臥雲辰致発明のガラ紡機には、博覧会の最高の賞牌、鳳紋賞牌が与えられた。この受賞をきっかけに、ガラ紡機は、一躍有名になり全国に広がっていった。
「第一回内国勧業博覧会出品のガラ紡機図」

ガラ紡機

((「明治前期産業発達史資料」明治文献資料刊行会発行))

2、ガラ紡機の第一回内国勧業博覧会出品

 明治政府は第一回内国勧業博覧会を開催するにあたり、各府県に出品物収集の勧誘を行ったが、開産社もそれに呼応して、出品を計画し、博覧会係を任命し博覧会に先行して上京させた。「市川量造とその周辺」有賀義人著に次の記述が有る。
明治9年10月に第一回内国勧業博覧会出品世話係として、市川量造[1]、野村与七郎、小林源一郎の3名が任命され、明治10年8月17日には「内国博覧会へ開産社ヨリ社員上京セシムル旨下命アリ、開産社員兼博覧会係市川量造、金井東吾ヲ当社惣代トシテ出府セシム」と開産社社長北原稲雄の命令が出ている。
国会図書館に「明治10年内国勧業博覧会出品目録」という文書が保管されており、役所別、県別の出品物がリストアップされている。その中で、臥雲辰致、開産社に関係した部分を抜き出して以下に掲示する。このリストには、出品者名とその住所が書かれているが、出品者が代表の場合は個別の生産者名も載っている。詳しく知りたい人は、この本のデジタルデータ化したものが、国立国会図書館のWEBサイトからダウンロード出来るので、そちらを参照されたい。
「明治10年内国勧業博覧会出品目録」

(国立国会図書館所蔵 編集筆者)
 最後の開産社社長である倉澤清也家に、明治9年11月7日付で、開産社から出された、第一回内国勧業博覧会に対する「自費出品願」と明治10年3月3日に大区長宛に出された、博覧会に関する通達が所蔵されており、開産社から出された「自費出品願」は「明治10年内国勧業博覧会出品目録」の内容とほぼ合致する。これによると、開産社から出品されたものは、おそらく開産社で展示している、綿糸、綿布、その他の織物などで、それらは開産社社長の橋爪多門か開産社社員の上田門三郎、または両名の名前で出品されている。この中で上田門三郎の名前で出品されている、木綿と木綿糸は、開産社から出された「自費出品願」の中に記載されている、「水車機械製」の木綿糸、木綿とみられ、これはガラ紡機で作られた綿糸とそれを水車織機で織った布であると思われる。以下にその資料を掲げる。
開産社から出された「自費出品願」

(倉澤家所蔵)

長野県筑摩出張所から出された通達

(倉澤家所蔵)

ガラ紡機そのものの出品は、「明治10年内国勧業博覧会出品目録」によると、筑摩郡波多村臥雲辰致となっており、臥雲辰致の自費出品という形をとっている。これは下に掲げる「自費出品願」と資料的に一致している。自費出品といっても、ガラ紡のような大型の機械を、半製品の状態で東京上野まで運び、寛永寺の大慈院の台所で再び組み立てなおして、展示会場に運び込むという大仕事は、明治10年という時代背景を考慮に入れると、博覧会係市川量造、金井東吾等の開産社の指導があったと考える方が自然である。もう一つの可能性としては、辰致と親交があった武居正彦は、当時中村正直の「同人社」に学んでいる為、東京滞在の経験があり、辰致とともに博覧会の準備をしたことも考えられる。
「第一回内国勧業博覧会 自費出品願」

自費出品願

(岡崎市美術歴史博物館所蔵 撮影筆者)

上に掲げた資料、「第一回内国勧業博覧会 自費出品願」であるが、これが臥雲家に保管されていたということは、この書類が実際には提出されなかった、ということである。辰致がこの文書を書いたが、どこか気にくわない個所があり、新しく書き直したのかもしれないが、真相は不明である。皮肉なことに、書き手側に保存されている、これらの官に対する提出文章は、正式に近いものになればなる程、未提出の可能性が高く、下書きの物の方が、提出した可能性が高いのである。

3、潤沢な資金と人脈

 伝記書などで、臥雲辰致は不遇で、支援者が少なく、貧困で器械の発明もおぼつかなかったとあるが、明治10年に松本から、大型冷蔵庫の2倍程の大きさがある機器を、分解して東京上野まで運び、大慈院の台所で再び組みなおして、博覧会場まで運んで動態展示するという離れ業をするためには、綿密な計画とかなりの資金が、必要だったはずである。これらの資金は武居美佐雄、波多腰六左、青木橘次郎の連綿社の同志が支出し、東京での組み立て場所などの手配は、官の手を借りたと思われる。ここには、ほとんどの辰致の伝記書が伝えている、資金が尽きてぼろをまとい土蔵の隅に寓居している辰致の姿など微塵もない。
すなわち、辰致は、ガラ紡機が全国に広まるきっかけになった、第一回内国勧業博覧会というチャンスを、潤沢な資金と人脈でものにしたのである。
臥雲辰致が不遇の発明家として、教科書や伝記書に登場するようになったきっかけの文書が存在するが、それはまた別な章で紹介したい。

4、明治十年内国勧業博覧会出品解説

 第一回内国勧業博覧会に関しては様々な資料が残っている。出品されたガラ紡機に関しても、『明治十年内国勧業博覧会出品解説』という書が存在しており、出品したガラ紡機の解説文や審査にあたったドイツ人ゴッドフレッド・ワグネルの批評などが掲載されている。
ちなみにこの本は、”第1巻 第一区 鉱業冶金、第2-8巻 第二区 製品、第9巻 第三区 美術、第10、11巻 第四区 機械、第12-16巻 第五区 農業、第17巻 第六区 園芸”の17巻の構成となっている。
明治十年内国勧業博覧会出品開設原文(クリックにより全文表示または非表示切り替え可)
「明治十年内国勧業博覧会出品解説」




(「明治前期産業発達史資料」明治文献資料刊行会発行)
北野進著「臥雲辰致とガラ紡機」によると、『この第一回内国勧業博覧会には出品総数二百十一点のうち、紡織部門の出品数は六十一点であり、計算すれば二十九.九%を占めてした。』とあるが、出品総数211点は「第四区機械」の部門への出品数で、全体としては、総出品人数16,174人、出品数84、352点であった。

5、履歴書と解説書の矛盾

解説書の中で『明治九年五月始メテ此機ヲ発明シ開産社中ニ連綿社ヲ設ケ工場ヲ筑摩郡北深志町字六九二起シ十年一月水車ノ装置ヲ以テ開業ス工夫一人にシテ一月ニ細絲ハ十八貫目踵(?)絲ハ七十二貫目ヲ製出スベシ棉ハ甲斐尾張ノ産ヲ用フ』とある。

■ガラ紡機の発明時期
『第2章の「自筆履歴書」の謎』で既に述べたように、ガラ紡機の発明時期は明治4年である。それならばこの『明治九年五月始メテ此機ヲ発明シ』とは何を指すのであろう。「此機」とは細糸を紡ぐことが可能なガラ紡機の事である。履歴書の中にも『同九年三月又復機械ヲ改遭シ且細糸機械ヲ成功シ』とある。すなわち辰致は太糸用のガラ紡機から細糸用のガラ紡機の改造を、発明に相当する改造と考えたと思われる。後にこの文章が、ガラ紡機発明時期を、より一層不明確にした。
太糸用のガラ紡機のどこを改造して細糸用のガラ紡機を作ったのかに関しては、別章で「ガラ紡機の技術的解説」(仮名)として書きたいと思っている。

■連綿社設立の目的
「自筆履歴書」には連綿社設立の目的を『五月三四ノ有志者ト協力シ大ニ機械ヲ製造セン事ヲ謀リ居ヲ松本ニ移シ連綿社ト名ヅクル一社ヲ設立シ専ラ機械製造ニ従事セリ』とあり、解説書では『開産社中ニ連綿社ヲ設ケ工場ヲ筑摩郡北深志町字六九二起シ十年一月水車ノ装置ヲ以テ開業ス』とある。すなわち履歴書では、連綿社はガラ紡機を製造するために設立したと書き、説明書では紡績、織物事業をする目的で設立したと書いている。どちらが本当であろうか、それは「連綿社条約の謎」の章で述べる。

6、長野県から博覧会に出品された他の機械

参考のため、ガラ紡機とともに、第一回内国勧業博覧会に、長野県から出品された機械を掲載する。これらの図はいずれも、「明治前期産業発達史資料」第7集(4)(刊行会)からコピーしたものである。
第一回内国勧業博覧会 出品例



(「明治前期産業発達史資料」明治文献資料刊行会発行)

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[1]第一回内国勧業博覧会出品世話係に任命された市川量三は、明治5年に松本城が大蔵省によって競売にかけられ、309両あまりで落札され、取り壊される寸前に自力で松本城を買い戻した人物で、博覧会に関しても深い見識を持った人物であった。