12章 辰致貧困伝説の謎

1、長野県平民臥雲辰致ヘ褒章授与ノ件

臥雲辰致 藍綬褒章 上申書

褒章

(国立国会図書館所蔵)

 国会図書館の中に『公文録・明治十五年・第九巻・明治十五年十月・太政官(賞勲局・参事院・統計院)』という書類があり、臥雲辰致に対する褒章授与の推薦書が保存されている。この中には以下の書類が含まれている。
1、明治15年十月十二日 賞勳局  
    農商務卿西郷従道代理 参事院議長 山県有朋  
                賞勳局総裁三条実美殿 
2、綿糸機械発明者褒章之義上申
    明治十五年五月八日 長野県令大野誠
                農商務卿西郷従道殿
3、履歴書
     長野県下東筑摩郡北深志町 弐百弐拾八番地
                臥雲辰致 三十九年六月
     明治十五年一月二十四日 臥雲辰致
4、臥雲辰致履歴
     明治十四年十二月
     最後に「綿糸機械広告」の写真あり。
     (下に掲載)

  

         
この文書から察すると、藍綬褒章の上申書は、明治14年の終わり頃から明治十五年の一月頃の間に、まず長野県東筑摩郡役所から長野県令に提出され、その後長野県令大野誠から農商務卿西郷従道に提出された。そして農商務卿西郷従道代理参事院議長山県有朋から賞勳局総裁三条実美に提出され、稟議にかけられたと思われる。これに先立って、東筑摩郡役所は、臥雲辰致の履歴書の提出を求めたのであろう。この件に関しては既に第二章で述べた。このようにしてみると、「臥雲辰致履歴書」が東筑摩郡の罫紙に書かれている理由がわかる。当時、辰致とともに開産社内に連綿社を作った武居美佐雄は、東筑摩郡の官吏をしているので、辰致受賞に関して何らかの働きかけがあったのだろう。明治13年、連綿社は経営不振のため解散し、辰致が連綿社の業務を引き継いでいる。引き継ぐといっても、開産社内の水車場や、ガラ紡機、織機は、ほとんどが辰致以外の3人の同志の出資によるものであるから、辰致はそれ相応の金額を支払って、買い取ったと思われるが、その辺は何も書類は残ってはいない。

3、大森惟中の報告書

話を元に戻すが、明治14年に開催された第二回内国勧業博覧会に、辰致は遅れて出品している。この件に関しては別の章で書く予定であるが、この展覧会の審査報告員、大森惟中の報告書が、「明治十四年内国勧業博覧会報告書」の中にあり、その履歴書の部分が、藍綬褒章の上伸書の最後に付されている。そのおよその訳と、資料を掲げる。

左の一稿は、明治14年第2回内国博覧会審査官たりし、大森惟中よりかつて当商工省へ差し出したる、臥雲辰致の履歴にかかわる録して、以て参照に供す。
臥雲辰致履歴
臥雲辰致は、信濃の人、初の名は栄弥、天保13年八月、安曇郡信濃村に生る。横山義重の次子なり、年甫14(14歳の初め)、家足袋底を織るを業とす。栄弥、綿糸を紡製する頗(すこぶ)る工を費すを、以て1つ機械を創造し、大に人力を省かんを思ひ、始めて其の様子(ひながた)を按出し、之を父兄に示す、父兄益なしとして之を沮(はば)め、意を遂くる能わず。栄弥欝々(うつ=ふさぐ)楽しまず。文久2年歳20歳ついに去て僧となり。
仝郡烏川村の宝降山安楽寺智順を師として、名を智栄と更め、大任と号す弟子たる凡そ7年、慶應3年始めて其の末寺臥雲山孤峰院に、住職す。
明治4年廃寺の令出づ、智栄乃ち還俗し山号を取りて臥雲辰致と称し、東筑摩郡波多村に寓す。
是に於いて、再び意志を興し、既に考えうる所の紡糸機を製造し、年を閲(年を経)て成る八年、専売を筑摩県に請願す。
県敢えて許さず、ただそれの発売を聴す。
然れども、製糸踈大にして裁(わず)かに足袋底に供し、猶(なお)未だ細糸を紡出するに至らざるなり。
辰致、刻苦(こっく=非常に骨をおること)思を構へ、明年3月に至りて始めて細糸を製出す。
然れども、製糸粗弱にして、僅かに緯糸(よこいと)に供し、猶未だ経糸とする能わざるなり。
會々、県吏河合杉浦2氏来たり、視て大いに其機を賞し、之を開産社に出すを勧む。
開産社は松本北深志町に在り、専ら信濃の物産を殖せんを謀るものとす。
辰致乃ち社内の1舎を借りて移住し数機を連設し水車を以て運転す。
然れども、得るところの利以て、其失ふ所を償う能わず、時に筑摩県の長野県に合す。明治10年始めて、内国勧業博覧会に出陳し、鳳紋賞牌を受領せり。
是に於て、模倣一時に遍(あめね)く、東京府下處として此機あらざるはなく、参遠攝泉の各地、争いて擬造を為し、皆自らを発明者と称す。
而して、辰致遂に利を獲裁るところなし。
辰致益屈せず、鋭意改良を図り、明治13年冬始めて墜子(フンドウ)の装置を変じて、綿筒の上に移し、絡木(イトマチ)の輪辺に鉄線を施す、紡糸鑱(わずか)に経糸となすに堪ふ。
すなわち、本年第2回博覧会に出し、新歩2等賞を下賜せらる。然れども運転未だ敏捷(びんしょう)ならず、糸縷(いとより)仍(な)ほ精細ならず、製頗(すこぶる)未だ増加せざるなり。
辰致資産を傾けて機械に従事し一たび考へ得たる所あれば、則ち悉(ことごと)く前機を摧破(さいは=ことごとく砕く)して、再造す。
此の如くする数次、其間、偶々社を結び業をたすくるものありと雖も、皆中道にして、離散す。辰致子然(こら)孤立貧困ますます極まり、妻子凍餒(とうだい=うえること)を免れず。辰致川澄氏を娶る、3子あり、5歳を長となす、今ここに之を其婦、翁の家に託して、出京す。
博覧会畢(ヒツ=おわ)るの後、東京に僑居(きょうきょ)して更に改造を試さんとす。
槖資全く竭きて、餘(あまり)なし。
衣服敝(へい=破れる)垢、復た用ふ可らず。天又寒に向ふて綿衣なし。
すなわち竊(ひそか)に臥被(ふとん)の胎綿を抽出して糸となし、自ら織りて衣となすに至る。
審査官大森惟中其斯(かくの)の如きを、憫み家に招きて、客となし為に工資を出し力を協して経畫す。数旬にして機始めて成る、すなわち読売新聞を以て広告す。
糸経細整運転軽便量額倍し、効用復昔日の比にあらず。
大いに世益を弘るに足る。是に於いて臥雲少年の志、纔(わずか)に遂げたり辰致年39、其初て機械に志せしより此に至りて凡26年なりと云。
明治14年12月
            綿糸機械広告書公文録に付す

「明治十四年内国勧業博覧会報告書」




文中の「読売新聞広告」

ガラ紡機

(国立国会図書館所蔵)

2、辰致貧困伝説の始まり

 上に掲げた大森惟中の報告書は、臥雲辰致研究家にとって非常に重要な文書である。これ以後辰致に関する伝記書や修身の本は皆この報告書を基に書かれている。すなわち、「辰致貧困の伝説」はこの惟中報告書に始まったといっても過言ではない。
「松本移住の謎」の中で、筆者は波多村の水車場にガラ紡機と機械織機を視察に来た県官は、河合、杉浦ではなく、開産社(勧業社)係の、権中属川井保厚であり、杉浦は権小属杉浦義方であると書き、この間違いは榊原金之助著「臥雲辰致翁伝記」に起因すると書いたが、実は榊原金之助は惟中報告書を参照した可能性が高い。なぜなら惟中報告の中に『會々、県吏河合杉浦2氏来たり、視て大いに其機を賞し、之を開産社に出すを勧む。』との記述があるからである。実は筆者が名前の間違いに固執する理由は、より厳密な歴史検証をすることが目的ではなく、間違いの継承を明らかにすることにより、どの伝記作家が、誰の文章を参考にしたか明らかになるためである。
惟中報告書の中に、「衣服はぼろぼろに破れ、垢だらけであり、着るに耐えられない。すなわち寒空に着るものがない。そこで辰致は、自分の布団から綿を取り出して、それを紡いで糸にして、更にそれを織って綿布にし、その綿布で着るものを作った。」との記述がある。これはまさに辰致の壮絶な貧困状態を描写している。しかし、よく考えるとおかしな点がいくつかある。先ず「寒空に着るものがない」とあるが、辰致が滞在したのは、第2回内国勧業博覧会の後であり、この博覧会は明治14年3月1日から6月30日まで開催されている。大森惟中は自分の家に辰致を招き、ガラ紡機の改良を援助している。報告書の中に「数旬にして機始めて成る、すなわち読売新聞を以て広告す。」とあるから、辰致が機械を改造するためには、最低でも2か月間は要したであろう。惟中報告書の日付が、明治14年12月となっているから、それより2か月前は、10月である。だとしたら、果たして東京の10月に「寒天」があるだろうか。そもそも、辰致は明治14年には、松本の開産社内という一等地に水車場と綿糸機械所を持っている経営者である。かてて加えて、彼は東京にも発明の工房を持ち、ガラ紡機に加え織機まで所有している。このような人物が果たして極貧といえるのだろうか。寒さをしのぐために、布団綿から糸を紡ぎ、それを織って衣服を作るなどということをする人がいるとは、到底考えられない。
辰致がガラ紡機で布団から糸を紡いでいたのは、ガラ紡機改造の実験を検証するための作業であり、紡いだ糸を使って綿布を織っていたのは、改造したガラ紡機で紡いだ糸が、織機に耐えられるか否か、特に経糸として織ることに耐えられるか否かの実験をしていたのである。洋式の紡績機械と比較してガラ紡機の持つ特徴の一つは、布団に使用されるような繊維の短いくず棉に近い棉でも、糸にすることが可能であり、辰致はそれを試していたのである。
大森惟中の使いの者が見たぼろぼろの衣装をまとった臥雲辰致は、もともと他人がどのように見ようが気にも留めない気性のなせる業であり、彼が師と仰いでいた発明家のリチャード・アークライトも、西国立志編によると、選挙の投票で人前に出るときに、衣装がぼろぼろで出られず、周りの人が衣装を作って与えたという逸話がある。すなわち、大森惟中の使者は、辰致がどのような人物か知らずに、単に見間違っただけであり、それが報告書になって、全国に広がったのである。
報告書の中に、「辰致子然(こら)孤立貧困ますます極まり、妻子凍餒(とうだい=うえること)を免れず。辰致川澄氏を娶る、3子あり、5歳を長となす、今ここに之を其婦、翁の家に託して、出京す。」とあるが、次男の家佐雄が生まれたのは、辰致が惟中宅に寄寓している、明治14年8月である。また、辰致の妻のたけは、辰致が最初の水車を動力としたガラ紡機を稼働させた、波多村の豪農川澄東左の長女であり、辰致上京中に実家に帰っていた辰致の妻と子が、飢えるなどということは考えられない。
すなわち、辰致貧困伝説は単なる勘違いから始まり、それに尾ひれがついたのである。