1、若澤寺一山之略絵図に残る建物(1)
1−1 最上段に在った「田村堂」について
備考:田村堂は国指定重要文化財
場所:波田地区上波田
阿弥陀堂 前覆屋内
国の重要文化財「田村堂」は間口と奥行が一間(一八二p)の建物です。
造られたのは室町時代後期の東山時代(一四八九〜一五五〇)とされ、全体に金箔が貼ってあり 、金色燦然と輝く厨子で、本尊の一寸八分の黄金の千手観音菩薩が安置されて観音堂中央にあった。
それが江戸時代中期の元文三年(一七三八)の「什物帳」には「田村丸の廟」となって薬師堂(金堂) に移されており、黄金の本尊千手観音像は、京都で新調した「金亀多宝塔」に入れ替えられております。
その後江戸時代後期の文化四年(一八〇七)に完成した石造宝篋印塔の隣へ移されて「田村堂」とされております。
現在覆屋内にある田村堂は、長年風雨にあい、金箔は風化していますが、京都の東山文化の禅宗様式で造られており、 繊細で優美な造作です。若澤寺の七堂伽藍の内では、最も古い十五世紀の建物です。
戦時中にこの建物を見た専門家の藤島亥治郎氏や大場盤雄氏が揮毫した扁額が今でも堂内に残っております。
昭和十二年 国の重要美術品に認定
昭和二十八年 国重要文化財に指定
昭和四十年 田村堂の全面解体修理
この時覆屋が造られる。
上波田で蚕玉神としてお祭り
若澤寺の廃仏毀釈の時、この田村堂も競売されております。
「田村殿宮」として銀三十匁で古畑玉蔵と古畑新吉両人が落札し、
上波田の地元では阿弥陀堂の境内へ移して、田村麿は養蚕の神として
蚕玉祭を毎年行っていたといいます。
1−2 「金堂」(薬師堂)は今井地区正覚院へ
備考:本尊に薬師瑠璃光如来像、脇立ちに日光、 月光菩薩像
の三尊が安置されていた。
場所:松本市今井
正覚院 に移築、観音堂となる。
若澤寺一山之略絵図の上段にあった「金堂」は本尊に薬師瑠璃光如来像と脇立ちに日光、 月光菩薩像の三尊が安置されており、明治六年(一八七三)に盛泉寺へ預けた仏像目録にも 書かれていますが、現在はこの仏体は見られません。
旧若澤寺の薬師堂(金堂)は間口三間、奥行き二間半で向拝屋根があり、 建てられたのは元禄年間(一六八八〜一七〇〇)といわれ、若澤寺七堂では古い建物です。
明治六年の競売では「薬師堂(金堂)は八両二朱」で古畑条太郎と相沢種吉両名で落札し、 転売先は旧西五千石(伊那県管轄)の今井村の浄土宗正覚院に売却したようです。
正覚院へは解体した材木を運び、観音堂として境内へ再建、今日に及んでいます。
正覚院では松本領浅間村の真観寺が廃寺され、大きな観音菩薩立像を引き取って若澤寺から 移したお堂に収めていますが、薬師如来の厨子には大きくて収納できずその前へ立てています。
なお正覚院へ移した金堂内部は、柱やなげしは朱塗りであり、 薬師如来の厨子も赤いベンガラ塗りの立派なものです。
1−3「観音堂」(中堂救世殿)は盛泉寺境内に
備考:
場所:波田地区
盛泉寺 に移築、昭和59年全面改築。
若澤寺一山之略絵図の中段に見える中堂救世殿(水沢観音堂)は間口五間、 奥行五間で屋根には正面に唐破風の向拝がみられ、二重の千鳥破風も描かれ、 また回廊があり、軒下の欄間は雲龍の彫り物があります。
観音堂は、上波田村より県への願書には「払下げ代金二百匁」とあります。
同じ上波田村にあった曹洞宗の盛泉寺(真木恵光住職)は廃仏毀釈の嵐を免れたばかりか、 その後明治八年(一八七五)九月七日には筑摩県に対し「水沢観音堂は盛泉寺が買い取ってあるので、 盛泉寺の境内へ引き移すことを許可してほしい」と申請し認められております。
しかもその後十八年目の明治二十六年(一八九三)には古田梵仙和尚から長野県知事にあて 「水沢観音堂を境内の高爽の地へ移したいので、寄付金を募ることを許可してほしい」と申請して それを実行しています。
昭和五十九年観音堂を新築
旧若澤寺の救世殿を解体して再建した盛泉寺境内の水沢観音堂は若澤寺の当時の材木をそっくり使ってあり 柱などは朱塗りであった。
しかし昭和五十九年(一九六〇)に水沢奉賛会と盛泉寺とで、全面的に新築した 観音堂はほぼ旧建物にならって新築されていますが、旧材料は腐朽していて、全部新しい材を使っております。
旧建物の用材はないが、外側では、正面軒下の外壁にかかる欄間の「雲龍の彫刻」だけが古いものです。
堂内には欄間額の「飛天の図絵画」など多くの旧いものが残っております。