若澤寺
1、若澤寺一山之略絵図に残る建物(2)
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1−4 「鐘楼」の枠組は梓川恭倹寺に
備考:瑠璃光寺から 恭倹寺
場所:松本市梓川梓
若澤寺一山之略絵図の中段の東南隅に鐘楼が見られる。この鐘楼は九尺×九尺の建物です。 明治六年の競売では古畑条太郎が代金九両で落札しており、その後転売しております。 この鐘楼は、梓川下角の浄土宗恭倹寺に屋根の枠組みと鐘撞き台部分はそっくり残っております。 さすが信濃日光といわれた若澤寺の鐘楼門らしい堂々たる桝組は見る者を圧倒する素晴らしい造作です。 しかし恭倹寺の創建は明治十三年(一八八〇)ですから、全く新しいお寺です。 直接若澤寺から移されたのではないようです。 『梓川村誌』には「三郷村上長尾の瑠璃光寺に行っていた鐘楼を再建した。」と書かれています。

瑠璃光寺が桝組み売る
そこで瑠璃光寺におたずねすると「若澤寺の鐘楼を買い取って解体して寺へ運んで置いたところ、恭倹寺で鐘楼がほしいというので、 上部の桝組だけを売り、脚の部分は瑠璃光寺の鐘楼を改築する時に使った」といいます。 この寺には古いカヤ葺き屋根当時の鐘楼の写真もあり、最近まで脚部分は若澤寺から来た材木を使ったといっていました。 現在はこの脚の部分も含めてすっかり新築されております。 なお旧若澤寺の梵鐘(つりがね)ですが「永享十一年(一四三九)大檀那信州国筑摩郡波多郷源信盛」と銘のある古鐘であった。 明治六年の競売では、最高価格の六十六両二分の高額で、中沢宇吉と安藤佐久次の両者が落札したが、 古美術品としては売れなかったらしく、結局壊して古銅として処分したらしい。 若澤寺一山之絵図の中段には、中堂のほか拝殿、御供所、アカノ井、塀、舞台、門などが見られますが、 全部競売され四散してしまっています。




1−5「庫裏、玄関、護摩堂」の内、玄関部分だけ正覚院に残る
備考:正覚院へ移築後、昭和47年に取り壊し、玄関のみ正覚院玄関に再利用。
場所:松本市今井 正覚院。
若澤寺一山之略絵図の下ノ段の建物の内庫裏(くり)、方丈(ほうじょう)、書院などは僧侶の生活の場です。 そのほか土蔵、板蔵、長屋、雪隠などは競売しています。 護摩堂は八間に七間(五十六坪)の建物で、木材も太く長いものが使われており、現在残っている礎石でも一番大きな石が並んでいます。 この建物には、本尊の水沢不動明王立像が右手に剣、左手に羂索(けんじゃく)を持ち火焔光背を背に負い岩座に立つ忿怒相ですが、 大日如来の化身となり、衆生の悩みを救う仏として信仰され、青色に彩色されており、鎌倉時代末期作といわれます。新義真言宗若澤寺の本尊です。 この建物は明治六年に競売されますが、一番立派な建物なので代金は五十六両二分で地元の五人が共同出資して落札し、今井村扱所に売っています。 この護摩堂とは別に、間口八間、奥行き七間の庫裏と玄関は、今井村の事務扱所(後の村役場)として、 明治十一年(一八七八)七月に金七十円で売却されている書類が残っております。 庫裏と勝手(三間×十間)は始め村では還俗帰農する僧侶の尭賢と芬々とに無償で払い下げるはずでしたが「銅瓦一件」があって、 僧侶側から、建物の売却は村方へ一任となって、ようやく五年後に話し合いがまとまり、全部の建物が売却されています。 今井村役場は、若澤寺の建物を昭和七年(一九七三)まで使っていましたが、新庁舎ができたので、 そのころ創立された産業組合へ建物を譲渡し、後継今井農協は昭和四十六年まで使用していましたが、時代に合わず取り壊して立て直されました。 若澤寺の玄関部分は、正覚院が引き取って由緒ある唐破風の間口二間が今も同寺に残っています。
1−6「稲荷社」は山形村の穴観音に
備考: 山形村穴観音
場所:山形村
若澤寺一山之略絵図の下ノ段にみえる「稲荷社(九尺×十尺)は、明治六年の競売で、 稲荷殿を古畑玉蔵が代金二分二匁で落札しています。 転売先は山形村竹田の穴観音で、同所に現存しております。 この売却先も松本領を避けて伊那県支配下の山形村へ売ったようです。 以上記録に残っている主要な寺院の七堂伽藍の行き先とその現在についてご報告いたしました。

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