アパートを探せ | |
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時間が無い!
私は憂鬱であった、ドイツに来てすでに一ヶ月余り経つのにいまだ住居が決まらないのだ。
ドイツ以外の国への出張が多く、デュッセルドルフに居ないので、住居を探している時間が殆ど無いのである。 月曜日の午前中に前の週の出張の報告書を書き、清算を行なって、その日の午後には再びドイツ以外の国に 出張に出かけ、金曜の夜デュッセルドルフに帰ってくるパーターンが多いのだ。 「木曜日のライニッシャーポストに空き部屋の広告が出るからそれを秘書のアンゲリカに買っておいてもらい、 其の新聞の中から候補を選択して、不動産屋にアポイントをとって部屋を見に行こう。」 とTさんは言った。 否も応もない、この際頼りになるのはTさんだけである。 Tさんは私より3歳位年上の親分肌の人で私にとっては会社の先輩であるだけなくヨーロッパでの先生である。 Tさんは我が社のベルギーの駐在であったが、デュッセルに駐在所が出来たので、ベルギーの事務所を閉めて、 約一ヵ月後には日本に帰国する予定である。 我が社は北はフィンランドから南はギリシャまで10カ国以上にその国の代理店を設定しており、その代理店の 引継ぎを一ヶ月以内に済まさなければならない事になっていた。 さて次の土曜日からは忙しかった、当時ドイツでは日曜日は全ての商店が休みで有る。 しかも土曜日は第一土曜日を除いて殆どの店が2時で閉まってしまう。 土曜日にはプライベートで必要な下着等の衣料品を買いに行ったり、出張で溜まりに溜まった洗濯物を デュッセルにあるコインランドリーで洗濯しなければならない。 その上秘書が買って置いてくれたライニッシャーポストを見て、よさそうな物件を選び不動屋と電話で予約を取り、 その日の午後見に行くのである。 住居を探す場所の候補地で有るが、デュッセルドルフの西側にはかの有名なライン川が流れいて、日本人の多くは、 デュッセルドルフとライン川を挟んだ対岸のオーバーカッセルと言う高級住宅街に住んでいた。 オーバーカッセルには日本人の小学校、中学校が有り、日本人向けのスーパーマーケットも在ったりして、いわゆる 日本人村の様相を呈していた。 私の最初の住居探しは当然の事ながら、このオーバーカッセルから始まった。 ドイツに赴任した私にとって、住宅探しは最初の試練であった。 以前からデュッセルドルフに事務所を持つ企業では、新任の駐在員は大抵前任者の住宅をそのまま引き継ぐことになる。 従って赴任早々に自分の住宅の確保に奔走する苦労は要らないのだ。 前任者の住居が気に入らなければ、少し落ち着いてからゆっくり探せば良いので有る。 しかしながら私の会社のようにデュッセルドルフに新しく駐在所を開く場合は、駐在員は自分で住居を探す必要が有った。 言葉が通じない為、日本人は群れる
住宅探しで一番の問題はなんと言っても言葉の問題である。
英語圏であれば何とでもなるのであるが、ドイツ語となると数さえ満足に数えられないのである。 ちなみに私の大学での第二外国語の専攻はロシア語であった。 日本に居ても不動産等のトラブルは多いので有るが、異国の地ドイツにあっては法律の違いや習慣の違いなどもあって、 長年ドイツに暮らしている人でも、住宅に関するいろいろなトラブルに巻きこまれることが多かったのである。 更にドイツの都市の中でも、デュッセルドルフで日本人が住宅を探すことは極めて困難で有った。 当時イナゴの集団の様にデュッセルドルフに押しかけてくる日本人が、オーバーカッセルなどに集中的に居住を始めた為に、 絶対的な空き部屋が少なく、価格が吊り上ってしまっていたのだ。 アパートにしろ一戸建てにしろ日本人が住む為には幾つかの条件をクリアーする必要がある。 まず其の中で最も重要な条件は、近くに他の日本人家族が少なくても1家族は住んでいることである。 当時デュッセルドルフに駐在所を持っている企業の多くが、ロンドンかデュッセルドルフをヨーロッパの拠点にしていた。 そして拠点となっている駐在所の駐在員は必然的に他のヨーロッパ諸国への出張が多くなるのだ。 出張中に奥さんや子供が事故や病気になった場合すぐに助けが呼べるように、 近くに日本人が住んでいる場所を選ぶのである。 言葉が通じなくても買い物や旅行などは全く問題は無い、一番の問題はやはり病気の時である、そしてその事は その後、否と言うほど強烈に実感させられる事になるので有るが。 重ねて言うがこれが英語圏であったら周りに日本人など居なくても一向に差し支えないのである。 ロンドンなどと違ってデュッセルドルフで日本人が固まって住む最大の理由はここにあったのだ。 住宅の条件の第二は交通の便である、ドイツは車社会であり、成人の殆どが自分の車を持っていて、 移動は殆どが車である。 ところが日本人駐在員の場合は一家族に車一台が普通で、たいがい主人しか車を持っていないのである。 これには色々理由があったが、主な理由は一台目の車は会社貸与してくれるが、 奥さんの車までは貸与してくれない、つまり自分で買わなければならないことである。 中古車なら車自体の値段はそれほど高くないけれど、ドイツでは車にかかる税金が高かったのだ。 もう一つの理由は、言葉がしゃべれないと車で事故に遭ったときに困るのである。 そんな訳で駐在員の奥さんで車を運転する人は比較的少なかったのだ。 車が無い奥さんは方は、買い物や子供の学校や幼稚園の送り迎えを、電車や自転車で行うことになる。 近いところは自転車で行くことが出来るが、遠くには電車を使うしかなく、電車の駅が近い必要があった。 そして子供たちの送り迎えが簡単な、学校や幼稚園の近くの場所に必然的に人気が集中していたのである。 不動産屋はドイツ語でイモビリアン
Tさんが言ったとおりにライニッシャーポストには沢山の住宅物件が載っていた。
しかしながら私が探す物件は日本人が住んでいる狭いエリアに限られる為にあまり多く無かった、 それでも2−3件候補を探してその物件を扱っている不動産屋に電話をかける。 "シュプレッヘン ジ エングルッシュ?"電話に相手が出るとまず我々はこう切り出す。 「英語はしゃべれますか?」と言う意味である、このくらいのドイツ語は私でも何とかしゃべることが出来た。 電話の向こうで一瞬息を飲む気配がする、"ナイン"(出来ない)と言う返事が殆どのの場合帰ってくる。 日本よりはるかに英語が通じるドイツでも一般の人は殆ど英語を話さないのである さてこれからが大変である、"イッヒメヒテ アイン チマ"(私 部屋ほいし)必死で知って単語を連発する。 どうにかこうにか部屋がほしいことと、どこの物件に興味があるかをわかってもらい、それからその物件を見に行く。 "イモヤロー"私たちはうまくいかない時、時々不動産屋のことをこう言ってなじった。 不動産はドイツ語で"イモビリアン"といった。"イモビリアン"は私がはじめて覚えたドイツ語だったかも知れない。 もしドイツ人が東京に来て2ヶ月以内に近くにドイツ人が住んでいる家族が住むことが出来るアパートを探すことになたら、 いったいどうであろうか? しかもそのドイツ人は日本語を話せずに英語しか話せないとしたら、私はこんな状況だった。 結局私は第一候補であるオーバーカッセルでの住居を探しを断念した。 理由は簡単でオーバーカッセルには殆ど空き物件が無かったからである。 その上オーバーカッセルでは、たまに出ている物件でも、見に行くとかなり手を入れないと住めない所だったり、 家賃の割に建物の状態が悪かったりしたからだ。 第二の故郷 メアーブッシュ
オーバーカッセルの代わりにTさんと私はメアーブッシュという場所を探し始めた。
メアーブッシュはやはりデュッセルドルフの近郊の高級住宅街でここにも少数ではあるが、 日本人が住んでいるという情報があったからである。 メアーブッシュはジュッセルドルフの中心から車で約30分位の所にあり、 電車が走っておりこれに乗ってでデュッセルドルフまで行けるのである。 またメアーブッシュの中心街には協会がありそこの幼稚園に日本人が数人居るとのことであった。 とにかく急がなければならない、ドイツのアパートは基本的には部屋以外に何も無いのである。 つまり電灯や、洗濯機、炊事に使う電気ヒーター、カーテン、ベット、食事テーブルや、 ソファーなど全て自分で揃えなければならないのだ。 困ったことにドイツの電気屋さんや家具やさんは日本と違い、在庫を全く持っていないのである。 注文があってから取り寄せる、又は作るので有る。 冷蔵庫や洗濯機は注文してから2週間はかかる、どうかするとベットなど1ヶ月も掛かるのである。 更に困ったことには安物といえ家具は高価であり3年足らずの駐在でいちいち自分で買っていたら とてもではないがかなりの赤字になってしまう。 ドイツは日本と違い家庭用の電気の電圧が220Vであり、たとえ電気製品を買って日本に持って来ても使えないのである。 従って家具等は当然会社で購入してもらい、貸与と言う形で借りるのであるが、高額なものを購入するときのは、 会社に対して稟議書というものを書かなくてはならない。 当時は今と違いファックスなど無く稟議書を封書で日本に送ることになるが、これは最低2週間近く掛かる。 つまり住居が決まってから電気製品やベットが来るまで、一ヶ月半は覚悟しなければならないのだ。 会社の規則というものはそれが海外の規則であっても、殆ど海外経験無い人間が日本にいて頭の中で考えた物である。 ドイツ日本人村最前線
もたもたしている暇など無い、このままではたとえ住居が決まってもベットはおろか、電気さえ使えないのである。
そんな時に前に一度違う物件を案内してもらって、市内から遠すぎるという理由で断ったヤンセンという 不動産屋が別の物件を持ってきた。 そこはメアーブッシュの中心から1.5KMくらい離れた3階建てのアパートの一階で以前日本人が 2年位住んでいたことがあるとのことであった。 私はすぐにそこを見に行った、そこは簡素な住宅街にあって、横には公園があった。 私は一目でそのアパートが気に入った家賃も日本円で10万円前後と手ごろであった。 ただ一つの問題は近くに日本人が居らず、日本人の居るところまで行くには15分位歩かなければならなかったことだ。 私は迷った、しかし残された時間は少ない、迷った末に私はそのアパートに住むことを決心したのである。 メアーブッシュ・ブリュラベッグそこが私たち家族の3年間の住居となった。 私の住居より後ろには全く日本人は住んで居なかった。 まさにドイツ日本人村最前線である。 Google Earth
私は最近これで何十年前かに住んでいたこのメアーブッシュのアパートを見つけた。 当時に比べて周りの木々が鬱蒼としているが、間違いなく我々家族が住んでいたアパートだった。 私が毎日車を駐車していたアパートの前の道もはっきり写っていた。 その写真を見ながら、私たち夫婦はしばらく呆然としていた。 懐かしさと、当時の苦労が頭の中で激しく交差していたのである。 |