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画像ファイル 初めてのデュッセルドルフ
ドイツ駐在員始末記
1いざドイツへ
2デュッセルドルフ
3駐在員の面々
4アパートを探せ
5女房と子供が来た
6ドイツ人の奥さん
7御入園
8ドイツ人秘書
9アパート事情
10虱騒動
11アウトバーンと車
12ドイツ語
13バカンス
14自転車騒動
15買い物
16食事と食材
17鍵が無い!
18娯楽と本

トラベルはトラブル
1不思議の国インド
2ローマ タクシー...
3モデナで道を...
4デリゲート入門
5...イギリス人
6片桐機長何を...
7ブルーカラー
8横メシ1
9横メシ2


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南前回で出発
ドイツ街角   私がドイツに発ったのは10月の初旬であった。
いったい何時間飛行機に乗ったのであろうか、韓国経由の長い長い南回りのフライトで、 私がデュッセルドルフに着いたのは夕方の6時位であった。
なんと成田を出発して48時間以上が経過していた。
当時日本からヨーロッパに行くには3つのルートがあった。
現在は日本 - ヨーロッパ直行便で登場時間が10前後のものが有るが、 当時は最も一般的なルートは北米アンカレッジを経由してヨーロッパに至るルートで、 出発から20時間以上かかったのだ。
そして当時の最短はモスクワ経由でこれはBA(イギリス航空)しか乗り入れて居なかったが、燃料を標準より 多く搭載出来るように改造した中型機で、成田 - ロンドンが17時間の搭乗時間であった。
しかし私が赴任に使ったルートはこの2つでは無く第三のルートで俗に殺人ルートと呼ばれる南回りで あった。
私の場合はKAL(大韓航空)であったが、先ず成田からソールに飛びここから出発する。
成田 - ソール - マニラ - バーレーン - チューリッヒ
などと経由する、バーレーンの前後でどこかに止まった様な気もする。
現在はこんなルートでヨーロッパに行く人は居ないが当時はチケット代が安いということも有り、 若者を中心に人気があった。
この経路は日本時間がたとえ夜中であろうとお構いなしに、どこかに止まる度に飛行機から追い出され、 その地域の食事時間に食事が出た。
若者が多いルートだけに、始めは物珍しさも手伝って、機内で出される食事を残らず平らげていた人たちも、 さすがに機内食が5〜6回を越える時から手を振って断っている人も多く、 半分眠っている人の前には、自動的に食事が置かれ、手を付けない食事が手際よく片付けられた。
スイスのチューリッヒに到着したのは昼ごろであったが、この頃になるともうヘロヘロ状態で、赴任の緊張感など 有ったものではなく、空港内のソファーでチューリッヒ -  デュッセルドルフ便の搭乗時間を待ちながら、 6時間の間、誰はばかることなく、だらしなく寝転んでいた。
後にこのチューリッヒ空港で日本からの出張者を出迎えたことが有った、この時はフライトがなんと7時間も遅延し、 永遠と待たされた覚えが有る。
その出張者はここから私とイタリアのナポリに行き仕事で3日間滞在した後、同じルートで帰っていった。

デュッセルドルフに到着
とにかくそんな訳で、私は無事に赴任地デュッセルドルフに到着したのである。
私がドイツに赴任してから約2ヶ月後に妻と娘が来る手はずになっている。
デュッセルドルフの空港には、ドイツ現地法人の所長となるはずのHさんと、 現在ベルギーのブラッセルの駐在員事務所の駐在員のTさんが出迎えに来ていた。
東京の夜の明るさに慣れていた私にとって、デュッセルドルフの夜は暗く寂しく感じた。
とりあえず其の日は、HさんとTさんが私の歓迎会をデュッセル市内の日本レストランで開いてくれた。
私たちはそれぞれ複雑な感情を持ちながら、再会を祝して寿司と日本のビールで乾杯したのである。
そしてこの日を境に私と私の家族の3年間のドイツでの戦いの火蓋が切って落とされたのである。


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